日本フィル・第268回横浜定期演奏会

昨日の日記で取り上げたパシフィカQのベートーヴェン・マラソンの合間、後ろ髪を引かれる思いで一回だけパスして聴きに行ったのがこれです。前日はサントリーホールでも同じプログラムが取り上げられましたが、開演時間は全く同じ。
二日目は開演時間に2時間半の差がありましたが、会場は赤坂と横浜(みなとみらいホール)。単純な計算ではマラソンの前半だけ参加して移動することは可能でしょう。しかし音楽を聴く行為は、そんな単純な問題じゃありません。

日本フィルの6月は予定ではアレクサンドル・ラザレフが振ることになっていましたが、広報などで開示されているように、ラザレフが持病である腰痛の手術のため来日不能、指揮者が変更になった経緯があります。
東京定期はラザレフ宿願のプロコフィエフ・ツィクルス最終章に当たるため曲目が変更されましたが、横浜は予定通りのプログラムで開催されました。もちろんソリストの変更はありません。以下のもの。

ブラームス/ヴァイオリン協奏曲
     ~休憩~
リヒャルト・シュトラウス/交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」
 指揮/高関健
 ヴァイオリン/堀米ゆず子
 コンサートマスター/江口有香
 ソロ・チェロ/菊地知也

ところで、聴いた演奏会の感想をブログに掲載する方も多くおられますが、私は原則として聴いた翌日にアップしています。一晩経過した方が考えが纏まるから。ただ余り時間が経過すると細かい点を忘れてしまうこともあり、翌日が妥当というのが私のスタイルです。
ところが今回の横浜定期は、マラソンのダメージが余りにも大きく、二日遅れのレポートになってしまいました。記憶が薄れてしまった部分もありますので、ごく大雑把な印象と言うことで勘弁願いましょう。

当日配布されたプログラムには、日本フィルとラザレフからの挨拶文が掲載され、ラザレフの無念は素直に会員に伝わりました。
また、それとは別にペラ紙で高関氏のメッセージもあり、演奏への期待も高まるように配慮されています。実際、マエストロの熱意と意思が伝わる素晴らしいコンサートでした。

先ずは何と言っても堀米ゆず子のブラームスでしょう。去年N響定期にピンチヒッターとして弾いたベートーヴェンの素晴らしかったこと。聞くところによれば、N響定期会員の投票で決まる去年のベスト・ソリストの第1位に選ばれた由。その堀米が代役ではなく、本来のソリストとして立ち向かうブラームスを聴き逃す手はないでしょう。

1741年製グァリネリ・デル・ジェスをホール一杯に響かせたブラームス、名人芸よりは作品の構成感に重点を置いたブラームスは、ソリストの名を「無」にするほどに作曲家への献身に徹した演奏でした。
高関/日本フィルのサポートも、ソリストの意向にピタリと寄り添い、交響的かつ室内楽的にブラームスを描きます。

後半はリヒャルト・シュトラウスのツァラ。今回は偶然とはいえ、高関健にとってはそのキャリアの節目節目で取り上げてきた作品。マエストロの作品への思い入れは尋常ならざるものがあります。
メッセージによれば、中学3年のときにカラヤン/ベルリン・フィルの来日公演で接して感動。自身が指揮者になるという強い意志を持つに至った体験があるとのこと。
その後ベルリンに留学、リハーサルにも立ち会って、演奏のコンセプトや作曲家からの伝承なども直接カラヤンから聞いた「ツァラトゥストラ」。今回の演奏では、マエストロが知り得た全てを演奏に反映させるという意気込みで臨んでいました。
高関曰く、恐らくカラヤンはシュトラウス本人のリハーサルにも立ち会い、ツァラトゥストラを学んだに違いない、と。

その高関の意図は、対抗配置による重厚でドイツ的な響きの中に良く集約されていると感じました。

今回のプログラム・ノート(山野雄大氏)のブラームスの項で、ブラームスが第4交響曲を世界初演した時のマイニンゲン宮廷管弦楽団のコンサートの模様が活写されています。一部引用させていただくと、
“最後の「大学祝典序曲」では楽長フォン・ビューローもシンバルを持って演奏に参加。隣で大太鼓を叩いていたのは、副指揮者に就任したばかりの若者-21歳のリヒャルト・シュトラウスだった。”

即ち、ブラームス→リヒャルト・シュトラウス→カラヤン→高関健 と受け継がれてきた伝統が、21世紀の現在も生きた音楽として聴くことが出来た、という事実。
ラザレフが指揮すれば今日のプログラムはどうだったか、などと考えるよりも、眼前の演奏に身を委ねれば新たな発見がある、という好例です。

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