日本フィル・第633回東京定期演奏会

9月、日本フィルの新シーズンがスタートしました。
前シーズンは3月定期初日が3・11大震災当日だったこと、その後も原発事故の影響でインキネンの来日中止、ラザレフの病気欠場などアクシデントに見舞われた日フィル。今シーズンは無事に日程が進行することを願わずにはおられません。
プログラム誌の挨拶でも紹介されているように、日フィルは震災被災地での活動に積極的に取り組んできました。その模様は、昨夜も配られた訪問コンサート・レポート第4号に詳しく綴られています。特に、同団トランペット客演首席奏者オットー・クリストフォーりのレポートは必読もの。是非目を通していただきたいものです。

そんな日フィルの9月定期は、取り上げた作品の内容も演奏も「音楽の持つ不思議な力」を証明して余りある優れたものでした。以下のもの。

≪マーラー撰集Vol.2≫
マーラー/交響曲第3番
 指揮/ピエタリ・インキネン
 メゾ・ソプラノ/アンネリー・ペーボ Annely Peebo
 女声合唱/栗友会合唱団
 児童合唱/杉並児童合唱団
 コンサートマスター/江口有香

首席客演指揮者・インキネンは、本来なら4月定期で同じマーラーの第6交響曲を振る予定でした。本人は不本意ながらそれはキャンセル、今回が≪マーラー撰集≫の第2弾に繰り上がっての公演となります。(団に確認したところでは、指揮者本人の意向もあって第6を改めて取り上げる予定は無い由)

日本フィルは、これまでマーラーの第3交響曲は小林研一郎とのみ共演してきました。私も二度ほど聴いた覚えがあります。
今回のインキネンとの演奏は、小林/マーラーとは趣が大きく異なるもの。予想された通り、アプローチは遥かにスッキリと見通しの良いもので、全体に速いテンポで進められました。

では素っ気ない演奏かと言うと、それは違います。周知のように、インキネンはヴァイオリンの名手。楽器を指揮棒に持ち替えても、彼の創り出す音楽は真に歌心に満ちたものだと言えましょう。
それが如実に示されたのが終楽章。透明感と流動感を前面に出しつつも、歌うべき旋律線はタップリと奏でられて行く。このフィナーレは秀逸でした。

現在の日本で聴くから尚更のことでしょうが、このフィナーレには「音楽の持つ不思議な力」が満ちています。静かに弦楽合奏が鳴り出したとき、自然に涙が溢れてきたのは私だけではないでしょう。
かつてバーンスタインの追悼演奏会で、ズービン・メータが“Good By, Lenny” と呼びかけてニューヨーク・フィルと捧げたこの楽章を思い出してしまいました。

私は、必ずしもマーラーの音楽に全面的に私淑するものではありません。それでも第3交響曲の終楽章だけは常に心の糧であり続けています。今回、久しぶりにこの作品にナマで接して見て、改めてそのことを確認することが出来ました。
インキネンの指揮者としての資質はそれに止まらず、作品の全体像の把握に優れているという事に尽きるでしょう。生まれながらのコンダクターとしての才能と呼ぶべきもの。

この夜、私が改めてこのマーラー作品に見出したのは、次のようなことです。

第3交響曲は6つの楽章から成りますが、全体は大きく二つの部分に分けることが出来る。即ち第1楽章から第3楽章までと、後半3楽章。前半はマーラーの自然観であり、後半は人間観。
第1楽章にはトロンボーンの長いソロが登場します。ヨーロッパでは、長い間トロンボーンは教会でのみ使われてきました。つまり神の楽器。トロンボーンは自然の中に存する神としての象徴ではないか。
第4楽章にはアルトのソロが登場します。これは前半のトロンボーンに対比されるもので、人間の中に存する神の象徴。
第4楽章以降はアタッカ、即ち全体が一つの楽章として演奏され、最終章では人間の「祈り」と「感謝」が謳われる。

これは私の勝手な解釈で、マーラーが意図したこととも、現代の一般的な評価とも違いましょう。しかし音楽は、一旦作曲家の手を離れれば作品自体が独り歩きするもの。それをどう解釈するかは、聴き手の自由に委ねられるべきものだと考えます。
インキネン/日フィルの今回の演奏は、私にとっては改めてマーラーに思いを致す切っ掛けになったようです。

オケも大健闘。金管のアンサンブルに更なる精度があれば感動はもっと大きかったかもしれませんが、それでも指揮者と楽員が一体となった真摯な演奏に賛辞を捧げたいと思います。

トロンボーンのソロを見事に吹き切った首席・藤原功次郎(「ふじわら」ではなく「ふじはら」と読みます)は、入団してそれほど時間が経っていません。恐らくこの曲のソロは初めての経験で、会場の喝采に思わず涙、燕尾の袖で目頭を拭っていました。
ホルンのソロを相変わらずのテクニックで吹き上げた福川伸陽はユーモアたっぷり。藤原に続いて指名されたコールで、ハンカチを取り出して涙を拭う仕草。これには楽員も聴衆も爆笑でホールが一気に和みます。
これに続いたのが、舞台裏(2階)で難しいポストホルン・ソロを完璧に演奏したオッタビアーノ・クリストーフォリ。改めてこの名手に盛大な喝采が送られます。

この日のコンサートマスター・江口も名演に華を添えました。思うに、日フィルの3人のコンマスの内、最もパワフル、且つアンサンブルに溶け込んでいるのが彼女ではないでしょうか。
(プログラムには「コンサートミストレス」と女性形で表記されていますが、「コンサートマスター」はあくまでも役職名だと思慮します。どうも私にはコンサートミストレスという言い方は違和感があるのですが・・・)

インキネンのご指名でソロを歌ったアンネリー・ペーボは、飛び切りの美女。ザルツブルク新聞に「ポップ界のマドンナ、オペラ界のペーボ」と評された由で、エストニア出身。
聞いた話では、エストニアは美女の宝庫とか。タリンにしてもタルトゥにしても、街中には信じられないような美人がゴロゴロしているそうです。そもそもスウェーデン、ロシア、ドイツなどに侵略されてきた国家、混血も多いのでしょう。
更に長い侵略による民族の危機が、種の保存のためにダーウィン流進化を促したかも知れません。(この項、余り深い意味はありません)

ペーボは容姿ばかりじゃありません。大切なのは、その深くて美しい歌唱。私に「神」(この場合は女神か)を連想させたのも、その声質の素晴らしさだったのでしょう。
今回の来日がこれだけでは余りにももったいない。仮に次回があるなら、是非「亡き児を偲ぶ歌」を歌って欲しいものだと痛切に思いました。
彼女の歌を聴くと、改めて肉体こそ楽器であるという事に気付かされます。声は咽喉から発せられるのではなく、体全体から出てくる。中々日本の歌手には望めない資質だと思いましたね。

金曜日は、聴衆の集中力にも感心。P席に合唱団が陣取っていたこともあるでしょうが、いつもより客席も埋まっていました。
ペーボは第3楽章が終了した後で舞台に登場しましたが、お決まりの拍手は起きません。それだけ客席が音楽に集中していたということ。
終了時も同様で、最後の和音がホールに減衰し、指揮者が腕を下げるまで客席は沈黙が支配していました。その分、最後の喝采も絶大でしたが、これはロンドンよりも真剣な聴き手と言えるでしょう。

最後に、今定期はインキネンから特別プレゼントがあります。来場者の中から5名に、この日発売されたばかりのCD(前回演奏のマーラー第1)を贈呈。終演後に座席番号で発表され(もちろん私は外れましたよ)、CD購入者も含めてサイン会もあったようです。
二日目も同様だと思いますので、もし当ブログを見て出掛ける方は、運を試してみて下さいな。

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