英国競馬1962(1)
今年も50年前の英国競馬回顧録をやりましょう。クラシック・レースを中心に、先ずは2000ギニーから。
1961年の2歳フリーハンデで上位2頭は、いずれもアイルランドのP.J.プレンダーガスト師が調教する牝馬でした。トップ(9ストーン7ポンド)のラ・テンドレッス La Tendresse は英国に遠征してシートン・デラヴァル・ステークス、モールコム・ステークス、ラウザー・ステークスを制した馬。
また、第2位(9ストーン3ポンド)のディスプレイ Display もイギリスで走り、サンダウンのナショナル・ステークスとニューマーケットのチーヴリー・パーク・ステークスを制覇、フランス遠征ではモルニー賞でプルーデント Prudent の3着に食い込んでいます。
一方、最も高い評価を与えられた牡馬は9ストーン1ポンドのミラルゴ Miralgo で、1961年に創設されたタイムフォーム・ゴールド・カップ(現在のレーシングポスト・トロフィー)の勝馬でした。
2000ギニーに向けた各地のトライアルからも特段目立った馬は出現せず、中心馬不在のまま5月2日の2000ギニーを迎えます。19頭が出走。
押し出されるように1番人気(11対2)に支持されたのはエスコート Escort 。ミラルゴが勝ったタイムフォーム・ゴールド・カップの2着馬で、騎手が巧く乗れば勝てていたと見られ、フリーハンデではミラルゴに次ぐ牡馬の2位(9ストーン)に評価されていました。明け3歳のトライアルではサースク・クラシック・トライアルに出走、ウインドスケール Windscale に4分の3馬身差2着に敗れましたが、ウインドスケールは既にシーズン初戦に圧勝した利があり、エスコートは長期休養明けを考えれば更に良化が見込まれると判断されます。
更にサースク・クラシック・トライアルの勝馬は、これまでニンバス Nimbus 、ネアルーラ Nearula 、パル・マル Pall Mall が2000ギニーを制覇、2年前の勝馬マーシャル Martial も本番で2着、前年のスイート・ソレラ Sweet Solera も牝馬クラシック2冠を達成するという縁起の良いレース。このこともエスコートを支持する大きな理由になっていたと思われます。
続く2番人気(13対2)にはエプサムのブルー・リバンド・トライアルに圧勝したサイラス Cyrus が上がり、前走でエスコートを破ったウインドスケールが7対1の3番人気で続きます。
しかし人気馬は総崩れ。エスコート8着、サイラスはドン尻19着、ウインドスケール16着と期待を裏切り、優勝は伏兵プリヴィー・カウンシラー Privy Councillor でした。100対6の8番人気です。
5番枠を引いたプリヴィー・カウンシラーはスタート良く先頭に立ち、その儘スタンドに近いグループの先陣を切ってあれよあれよの逃げ切り勝ち。勝負所でロムルス Romulus が並び掛けましたが、度々手前を替えて苦しむ様子。これを見たプリヴィー・カウンシラーのウイリアム・リッカビー騎手がムチ一発で馬にゴーサインを出すと、そのままロムルスに3馬身差を付ける圧勝に終わりました。
更に2馬身差3着にプリンス・ポッパ Prince Poppa が入り、以下4着クリアー・サウンド Clear Sound 、5着ハイ・ヌーン High noon の順。
勝ったプリヴィー・カウンシラーは調教師一家で知られるトム・ウォーフ Tom Waugh 師の管理馬で、ジェラルド・グラヴァー少佐(当時)の自家生産馬。ウォーフ師にとっても、グラヴァー氏にとってもクラシック初勝利となります。(このあと共にクラシック制覇は無く、師にとっても氏にとっても唯一のクラシックとなりました)
騎乗したウイリアム・リッカビーは1917年生まれ、戦前からキャリアを重ね、この時45歳のヴェテラン。クラシックは前年スイート・ソレラ(前出)での1000ギニー、オークス2冠に続く2年連続の3勝目となりました。(そして最後でもあります)
グラヴァー氏はプリヴィー・カウンシラーの母ハイ・ナンバー High Number を当歳のときに750ギニーで入手。ハイ・ナンバーは2・3歳時には14戦して未勝利でしたが、4歳時に小レースを複数勝ったという記録が残っています。
プリヴィー・カウンシラーは2歳時に3勝。いずれもレスター、バーミンガム、ウォーリックというマイナーな競馬場でのもので、フリー・ハンデの格付けは7ストーン10ポンド。この馬がクラシックを制すると予想できた人は恐らく一人もいなかったでしょう。
明け3歳初戦でプリヴィー・カウンシラーが選んだのは、ニューマーケットのトライアル戦である7ハロンのフリー・ハンデキャップ。8ストーン4ポンドを背負って、クラシック同様に逃げ切り勝ちを演じます。しかし1馬身差2着の馬とのハンデ差、兄がスプリンターのネロズ・サガ Nero’s Saga である血統的な背景からも、1マイルのクラシックで好走することは考え難い状況でした。
実際、フリー・ハンデでプリヴィー・カウンシラーに騎乗したジョセフ・サイム騎手はクラシック本番では3番人気のウインドスケールに騎乗、リッカビー騎手は依頼されての乗り替わり騎乗だったのです。
2000ギニーの後、プリヴィー・カウンシラーは3戦して勝てませんでした。その内2戦は同馬にとってはスタミナに疑問のある1マイル以上の距離であったこと、3戦のいずれもが彼の得意とする馬場状態(2000ギニーは firm )にならなかった(全て good のやや柔らかい馬場)こともありますが、馬の状態が2000ギニーでピークに達していたというのが、その後の不振の真因でしょう。
ロイヤル・アスコットのクイーン・アン・ステークス(1マイル)では1番人気に支持されましたが5着敗退。3か月の休養を経て臨んだドンカスターのスカボロー・ステークス(10.3ハロン)では距離不安を考慮して後方待機策を取りましたが3着。3着と言っても勝馬ラッキー・ブリーフ Lucky Brief からは4馬身ほども離される完敗でした。
最後のチャンピオン・ステークス(10ハロン)は7頭立て6着。勝馬アークティック・ストーム Arctic Storm から12馬身も遅れた一戦を最後に、ニューマーケットのハミルトン牧場に引退し、種牡馬生活に入ります。
ところでプリヴィー・カウンシラーの父はカウンセル Counsel 。名マイラーのコート・マーシャル Court Martial 産駒で、ヨークのローズ・オブ・ヨーク・ハンデに2度勝つなど10勝した馬です。
カウンセルはクラシック・レースには不出走だったことと、ハンデ戦以外には大レースの勝鞍が無く種牡馬としては余り期待されていなかったこともあって、初年度の種付料は僅かに98ポンド。そして初年度の種付け頭数は21頭に留まっていました。
しかし、正にその最初の種付けから生まれたのが、プリヴィー・カウンシラーです。同馬のクラシック制覇によって種付料は急騰、海外からもカウンセル購入の話が舞い込んだのだそうですが、これはレヴィー・ボード(徴税委員会?)の資金援助によって阻止されました。
種牡馬としてのプリヴィー・カウンシラーは完全な失敗と言えるでしょう。6年間の供用で代表産駒と呼べるのはオーナーだったグラヴァー氏が生産したピッチリー・プリンセス Pytchley Princess (プリンセス・エリザベス・ステークス)くらいのもの、1969年には日本に輸出されます。
日本でもプリヴィー・カウンシラーの種牡馬成績は凡庸の一言に尽きるでしょう。特別競走に3勝したエイオサン(日吉特別、府中特別、みなづき賞)、同2勝のワイエムキサラギ(たんぽぽ賞、寿賞)を挙げても、ほとんど記憶に残っているファンはいないと思慮されます。ブルードメアサイアーとしての活躍も見当たりません。
レヴェルの低い英国のクラシック世代、その中で最も仕上げが速かったのがプリヴィー・カウンシラー。この年の3歳マイラー最強馬はロムルスでしたが、5月初めの時点では未だ成長途上、結局クラシックの栄冠には手が届かなかっという結論になりましょうか。
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