英国競馬1962(2)

50年前の英国競馬回顧録第2弾は、2000ギニーの翌日、5月3日に行われた1000ギニーを取り上げます。

前回も紹介したように1962年の3歳馬は牝高牡低でしたが、クラシック戦線は順調には行かず、いくつかのドラマが生まれました。

フリーハンデ首位のラ・テンドレッス La Tendresse が冬場の1000ギニー本命となりましたが、この年の冬は悪天候続き、特にアイルランドでは調教もままならずにクラシック出走を断念してしまいます。また同馬は父がグレイ・ソヴリン Grey Sovereign ということもあってスプリント路線を選択しましたが、結局3歳シーズンは3戦1勝(キング・ジョージ・ステークス、5ハロン)で終わってしまいました。
一方、同厩でフリーハンデ2位のディスプレイ Display は3月31日に地元アイルランドの7ハロン戦(ナース競馬場のパディーズ・シスター・ステークス)に出走し、これが初出走というデスカ Desca という馬に7馬身遅れの4着に終わります。この日は大変な不良馬場で、ディスプレイにとっては単なる脚慣らし、陣営では敗戦を全く問題にはしていませんでした。
むしろディスプレイの死角は1マイルを克服できるかに集まっており、父ラスタム Rustam より母レヴュー Review がパノラマ Panorama 牝馬のスプリンターであることにスタミナへの疑問が噂されていました。
(レヴューが1000ギニー馬2頭の母になるのは後のことで、この時点ではレヴューは短距離血統と見做すものがほとんどでした。レヴューの娘プールパルレー Pourparler は1964年、フリート Fleet は1967年の1000ギニーを制覇します)

それでも1000ギニー直前の調教が良かったことに陣営の強気発言も手伝って、1000ギニー当日はディンプレイが5対2の1番人気に支持されていました。
この年に新設されたネル・グィン・ステークスに勝ったウエスト・サイド・ストーリー West Side Story は5対1で3番人気でしたが、勝馬より重い負担重量を背負って同レース2着の評判馬フールズ・ゴールド Fool’s Gold が4対1の2番人気に推されています。

レースは14頭立て。多くがスタンドに近いグループを形成し、外ラチを選択したのは少数派。終始先行グループで流れを主導したディスプレイのブーグール騎手がゴール前3ハロンの藪から仕掛けてリードを奪いますが、フールズ・ゴールドとウエスト・サイド・ストーリーもスタンド側グループから追走に入ります。ディスプレイの手応えの良さから、この時点では彼女がどれだけの差で勝つかが見所とさえ思えたほど。
先ずフールズ・ゴールドが脚を失くして後退し(最終的には6着)、替って進出してきたのが芦毛のアバーメイド Abermaid 。スタミナを極力温存してきたウイリアム・ウイリアムソン騎手は最後の上り坂でアバーメイドの末脚を爆発させ、外からディスプレイに襲い掛かります。長い間先頭に立っていたディスプレイはこれを凌ぐ余力が残されておらず、アバーメイドが遂に本命馬を捉えました。
しかしアバーメイドもスタミナはギリギリ、先頭に立つと同時に頭を挙げ、尾を振りながら苦しんでディスプレイの方に寄れる。このとき両馬の間を割って抜けようと二の足を使ったウエスト・サイド・ストーリーのエフ・スミス騎手は思わず馬を引っ張り、3頭が馬体を接するようにゴール板を通過します。ゴール前の写真は、この年のレースホース誌にもブラッドストック・ブリーダーズ・レヴュー誌にも掲載され、如何にウエスト・サイド・ストーリーが不利を被ったかが見て取れます(写真はスポーツ・アンド・ジェネラル提供)。

ゴールの到着順位は、1着アバーメイド、半馬身差2着ディスプレイ、4分の3馬身差3着ウエスト・サイド・ストーリー。以下4着ペルヴィンカ Pervinca 、5着アナッサ Anassa でしたが、直ぐに審議となります。もちろん対象はアバーメイドの斜行。
実に20分もの間パトロール・フィルムを参考にした審議が行われ、結局はゴール通過通りで確定となりました。当時のルールでは、勝馬が2着馬の進路を妨害したと判定されない限り失格とはなりません。もしウエスト・サイド・ストーリーが2着で入線していればアバーメイドは失格となり、優勝はウエスト・サイド・ストーリーに与えられたはずです。

アバーメイドは、アイルランドでパーシー・ロレーヌ卿とロデリック・モア・オファーロル氏によって共同生産された馬。2歳時にはロレーヌ卿の勝負服で走りましたが、その年にロレーヌ卿が死去、3歳時はモア・オファーロル氏の勝負服で走り、クラシックを制覇しました。
モア・オファーロル氏は若い時にアイルランドで調教師でもありましたが、1930年代初めに廃業してキルダンガン牧場を設立。1953年にはロレーヌ卿も参加して優れた馬を輩出してきました。ここの生産馬には2000ギニーのダリウス Darius 、同じく2000ギニーのネアルーラ Nearula 、1000ギニーのクイーンポット Queenpot 、愛オークスのアドミラブル Admirable 、愛2000ギニーのコスロ Khosro 、タイムフォーム・ゴールド・カップのミラルゴ Miralgo などがあり、英クラシックはアバーメイドが4頭目。オファーロル氏の勝負服では、アバーメイドが唯一のクラシック馬となります。

またアバーメイドを調教したのは、名騎手でもあったハリー・ラグ師。アマチュア・ボクサーでもあった父を持つラグは、騎手時代は追い込みで鳴らし、「ヘッド・ウエイター」の綽名で親しまれた名手。騎手としてはクラシックに13勝の輝かしいキャリアを誇った方です。(ダービー3勝、オークス4勝の5冠騎手)
更に調教師としても成功、クラシック制覇は1954年の2000ギニー馬ダリウス以来の2勝目となりました。(このあと3勝をマーク、調教師としてもオークス以外のクラシックを制覇することになります)

アバーメイドは名前からも連想されるように、父は名スプリンターのアバーナント Abernant 、母はデイリーメイド Dairymaid という血統。父アバーナントに最初のクラシック勝利をプレゼントしました。
2歳時はニューマーケットのグランビー・ステークス、ヨークのゼットランド・ステークス、ロイヤル・アスコットのニュー・ステークスに勝って無敗。フリーハンデでは8ストーン6ポンドが与えられ、首位のラ・テンドレッスからは15ポンド低い20位に評価されていました。

3歳初戦は、奇しくも2000ギニー馬プリヴィー・カウンシラーと同じフリー・ハンデキャップ。スタートで他馬とぶつかる不利もあって着外に終わり、生涯初黒星を喫していました。それもあって、次走の1000ギニーでは100対6の7番人気タイ。プリヴィー・カウンシラーと同じオッズだったのも偶然でしょうか。

1000ギニーのあとアバーメイドは3戦し、いずれも勝てなかったことも2000ギニー馬と同じ。
愛1000ギニーはイーヴンの1番人気に支持されましたが、シャンドン・ベル Shandon Belle の3着。ロイヤル・アスコットでは7ハロンのジャージー・ステークスに出走し、キャッチポール Catchpole の半馬身差2着、そしてニューマーケットのフォルマス・ステークス(1マイル)でのトゥルネラ Tournella の3着が現役最後のレースとなりました。

3歳シーズンを終えて繁殖に入ったアバーメイドは、初産駒のグレート・ホスト Great Host (父シカンブル Sicambre )がチェスター・ヴェーズとグレート・ヴォルティジュール・ステークスに勝ってクラシック路線の話題になりました。

また、彼女の娘ではクレペラ Crepela とハンティング・ボックス Hunting Box の2頭が日本に輸入され、ハンティング・ボックスが皐月賞馬アズマハンターの母になったことは日本の競馬ファンにも夙に知られているところ。日本にも馴染の深い1000ギニーとなりました。

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