英国競馬1962(5)

1962年の英国クラシック、最後のセントレジャーに行きましょう。

先ずダービー馬ラークスパー Larkspur についてはダービーの項でその後の戦績を紹介しましたが、アイルランド・ダービーとブランドフォード・ステークスにいずれも1番人気で出走するものの勝てず、幸運なダービー馬としての評価のままセントレジャーを迎えます。
ダービーで厩舎の期待ではラークスパーを上回っていた同じオブライエン厩舎のセブリング Sebring (ダービー5着)も愛ダービーに出走して3着、ラークスパー(4着)には2馬身半先着して厩舎の期待を証明して見せます。このあとセブリングはキング・ジョージⅥ世クィーン・エリザベス・ステークスで古馬に挑戦するも7着敗退、これまたダービー後の勝鞍が無いままセントレジャーに向かいました。

ロイヤル・アスコットで注目されるのは、ダービーと同じ距離で行われるキング・エドワード7世ステークス。ここには英国馬でダービー最先着(4着)したエスコート Escort が登場して1番人気に支持されました。しかしエスコートはガウル Gaul という馬に4分の3馬身敗れ、結局は勝ったガウル共々セントレジャー出走を断念します。しかしこの時の3・4着馬、シルヴァー・クラウド Silver Cloud とモンテリコ Monterrico とがセントレジャーに駒を進めることになりました。

さてセントレジャーの伝統的なトライアルとなる最初は、グッドウッド競馬場で行われるゴードン・ステークス(ダービーの1マイル半より数ヤード短い距離)。ここにはダービー落馬組のヘザーセット Hethersett とピンダリック Pindaric 、11着のミラルゴ Miralgo と前述したエスコートが顔を揃えました。エスコート以外はダービー以来の競馬となります。
アスコットの敗戦にも拘わらずエスコートが1番人気に推されましたが、ダービー組は全てアイルランドのゲイ・チャレンジャー Gay Challenger (スピードシンボリと同じロイヤル・チャレンジャー Royal Challenger 産駒)という伏兵に逃げ切られてしまいます。レコード・タイムではありましたが、ゲイ・チャレンジャーにはクラシック登録が無く、セントレジャーには出走する権利がありませんでした。(当時は追加登録のルールはありません)
このレースでミラルゴは3着、エスコートは4着でしたが、着外に沈んだヘザーセットについては、仮にダービーで落馬が無くても勝てなかっただろうとコメントする競馬記者も多数ありました。彼らは6週間後に大恥を搔くことになることも知らずに・・・。

こうして舞台はヨーク競馬場のトライアル戦、グレート・ヴォルティジュール・ステークス(1マイル半)に移ります。ここには英愛を代表する3歳馬が勢揃いしてきました。その中にはセントレジャーを目指す馬の他に、ゴードンを制したゲイ・チャレンジャーも含まれています。
レースはヘザーセットとミラルゴがハナ面を揃えてゴールインし、写真判定に持ち込まれます。モンテリコが3着、エスコート4着。写真判定の結果、ヘザーセットが短頭差でミラルゴを抑えての勝利でしたが、一旦は完全に抜け出したもののミラルゴに並ばれ、再度差し返しての辛勝。距離が2000メートルなら完勝だったという印象は拭えず、ヘザーセットのスタミナに疑問を呈する競馬記者も少なからずいたようです。

これで主要なトライアルは終えましたが、イギリスとアイルランドには確たるセントレジャー候補が見当たらず、競馬記者たちは目を皿のようにして本命馬を探します。そこで注目されたのが、イタリアから出走宣言してきたアンテラミ Antelami 。故フェデリコ・テシオのドルメロ=オルジアータの生産馬で、テシオがかつて英国にネアルコ Nearco やリボー Ribot を送り込んできた記憶も新しく、このイタリア・ダービー馬には過剰なほどの期待が掛けられたのでした。

愈々9月12日、15頭が出走してシーズン最後のクラシックのスタートが切られます。
前述のとおり、7対2の1番人気がアンテラミ。ダービー馬に敬意を表してかラークスパーが8対1の2番人気で、同じく並んだ2番人気には上昇著しいモンテリコが続きます。以下ミラルゴの9対1が4番人気で、ヘザーセットは漸く100対8の5番人気止まりでした。

レースはフランスのラージュ・ドール L’Age d’Or (ドーヴィルで長距離戦に勝った上がり馬)のペースメーカーを務めるジョリー・プリンスⅡ世 Jolly Prince Ⅱ が何とスタート(当時はバリアー)で出遅れ、仕方なくラージュ・ドール自身が先頭に立って始まりました。一旦は出遅れたジョリー・プリンスが直ぐに取り返してペースを作ります。パヴォット Pavot 、ミラルゴ、スパータン・ジェネラル Spartan General がこれを追走し、アンテラミはミラルゴの直後。ラークスパーは最後方に待機する展開です。
中間点でペースメーカーが脱落すると、馬群はややゴチャつきながら直線へ。ここでヘザーセットが外から順位を上げますが、ラークスパーとモンテリコは未だ後方グループのまま。直線では先頭に立ったパヴォットをミラルゴが交わし、これにシルヴァー・クラウドが競り掛けてハナに立ちます。
しかし接戦はここまで。外からウイリアム・カー騎乗のヘザーセットが手応えよく脚を伸ばすと、レースは決着です。最後は馬なりに近い楽勝で4馬身差を付ける圧勝でヘザーセットが快勝。ミラルゴの追い上げもペースは上がらず、最後の100ヤードでモンテリコが同厩のミラルゴを捉えて2着、1馬身差でミラルゴは3着に終わりました。以下アイルランドからの挑戦組マーチ・ウインド March Wind が4着、セブリング5着、ラークスパー6着という結果。本命アンテラミは11着惨敗。

終わって見ればヘザーセットは強かった。やはり落馬が無ければダービーも勝っていたのでは、と思える内容で最後のクラシックを制しました。

ヘザーセットは、ヨークシャー出身のライオネル・ホリデー少佐の自家生産馬。少佐はサラブレッドとハウンド犬の目利きに優れた人で、血統には一家言を有していました。クラシック制覇は1951年のオークスをニーシャム・ベル Neasham Belle で制して以来2度目のこととなります(このあと1965年にナイト・オフ Night Off で1000にも勝ちます)。
同馬を管理するウイリアム・ハーン師は第二次世界大戦に従軍した後、英国馬術チームのコーチとしてオリンピックの金メダルも獲得した名ホースマン。クラシック制覇はヘザーセットが最初でしたが、この後ダービー以外の4冠を制覇、歴史的名馬ブリガディア・ジェラード Brigadier Gerard を手掛けることになります。また、女王の持馬ハイクレア Highclere を調教して1000ギニー優勝、更に女王のダンファームリン Dunfermlin をオークスとセントレジャー優勝に導いたロイヤル・トレーナーでもあります。それだけにヘザーセットのダービー落馬は悔やまれることでしょう。

そのダービーでは落馬したウイリアム・カー騎手は、専らハリー・カーとして親しまれた英国競馬史に名を残す名手。戦前から騎乗する長いキャリアを誇り、クラシックは2000ギニー以外の4冠騎手。メルド Meld (1000ギニー、オークス、セントレジャーの3冠牝馬)、アルサイド Alcide (セントレジャー)、パーシャ Parthia (ダービー)に続く6勝目で、最後のクラシック勝利でもありました。

ヘザーセットは2歳のデビュー戦でアスコットのデューク・オブ・エディンバラ・ステークス(6ハロン)に優勝、続くタイムフォーム・ゴールド・カップ(1マイル)はミラルゴの5着でシーズンを終え、フリー・ハンデは8ストーン8ポンド。
3歳時はブライトンのダービー・トライアル・ステークス(12ハロン)の圧勝でシーズンを開始し、ダービーでは本命に推されます。それ以後は前述の通り。

セントレジャーの後、ヘザーセットは距離の短いチャンピオン・ステークス(約2000メートル)に出走して1番人気に支持されましたが、調子が落ちていたこともあり、アークティック・ストーム Arctic Storm の2着に完敗して3歳を終えます。

古馬も現役に留まったヘザーセットは、3戦して未勝利。ニューマーケットのジョッキー・クラブ・ステークスはダーリング・ボーイ Darling Boy の2着、エプサムのコロネーション・カップがエクスバリー Exbury の2着、ロイヤル・アスコットのハードウィック・ステークスではミラルゴの5着に終わりました。最後の2レースは、いずれも勝馬からは6馬身差の完敗です。
4歳時の3戦はいずれも1マイル半のレースで、セントレジャー馬のヘザーセットには距離が短かったことは否めません。この当時、既にヨーロッパの競馬は1マイル半に重点が移りつつあり、クラシック馬がゴールド・カップなどの長距離戦を戦う機会に恵まれなくなってきていたことがヘザーセットの不幸だったと言えるでしょう。

これを最後に6月にはニューマーケットのサンドウィッチ・スタッドに種牡馬として引退、1株3000ポンドのシンジケートが組まれます。

種馬としてのヘザーセットが僅か3年間の供用だけで死去したのは、ダービー落馬以上に不幸だったと断言できそうですね。この3年間で、ダービー馬ブレイクニー Blakeny 、ハイレヴェルのヴェルメイユ賞を制したハイエスト・ホープス Highest Hopes 、デスモンド・ステークスに勝って種牡馬としても成功したレアリティー Rarity を出すなど、その早逝は世界の競馬界にとっても大きな損失でもありました。
何故なら、ヘザーセットこそ父ヒュー・ルーパス Hugh Lupus を通し、現在では絶滅寸前にまで追い込まれているバイアリー・ターク Byerley Turk を始祖に持つヘロド Herod 系のほぼ最後のクラシック馬であるからなのです。

最後に日本との関連を探ってみましょう。
ヘザーセットの直仔で日本で活躍した馬は見当たりません。僅かにその仔ハーケン Harken がわが国で供用されましたが、失敗に終わっています。
ただ、ヘザーセットの母ブライド・エレクト Bride Elect (父ビッグ・ゲイム Big Game)は日本で大成功した種馬ネヴァー・ビート Never Beat の母でもあり、その血統から現代の日本の牝系にもヘザーセットに近いDNAが伝わっているのではないでしょうか。

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