英国競馬1962(3)

1962年の英国クラシック、愈々ダービーに行きましょう。ダービー史上でも最も劇的と言われた波乱のクラシックですが、時系列を負って順に振り返ります。

先ず2000ギニー馬プリヴィー・カウンシラー Privy Councillor は、前々回に取り上げたように血統的に1マイル半に走る馬ではなく、ダービーには最初から登録がありません。
結局2000ギニー出走組でダービーにも駒を進めたのは僅かに3頭でした。2着のロムルス Romulus 、5着ハイ・ヌーン High Noon 、そして2000ギニーで1番人気に支持されながら8着に終わったエスコート Escort です。
3頭の内ハイ・ヌーンとエスコートはダービーに直行し、ロムルスだけがダービーのトライアルに出走しました。

ニューマーケットのあと最初に行われた重要なトライアルでは、チェスター競馬場のチェスター・ヴァーズが注目されました。前年の3歳牡馬で最も高く評価されたミラルゴ Miralgo がシーズン・デビューを迎えたからです。
しかしこのトライアルを制したのは、同じオリオール Aureole 産駒のシルヴァー・クラウド Silver Cloud 。結局ミラルゴは人気に応えられず3着に敗退してしまいます。

続いてアイルランドから、ヴィンセント・オブライエン厩舎のセブリング Sebring がカラーのマイル戦に快勝してダービー候補に名乗りを上げたというニュースが伝わってきます。これもまたオリオールを父に持つ馬で、セブリングはこのあと愛2000ギニー(6着でしたが)からエプサムに挑戦することになります。

一方ブライトンで行われたトライアルは僅か3頭立てでしたが、ヘザーセット Hethersett がリヴァー・シャンター River Chanter を破って注目されました。この2頭もダービーに向かいます。

そして事実上ダービーへの最終便となったリングフィールド・ダービー・トライアルには2000ギニー2着のロムルスと、一叩きしたミラルゴが対決します。このトライアルはこれまでも多くのダービー馬・好走馬を出してきましたが、この年はダービーまで僅か12日しかないという強行軍が気になるところでした。
しかしリングフィールドを制したのはロムルスでもミラルゴでもなく、ダービー馬ピンザ Pinza の仔ピンダリック Pindaric でした。ミラルゴは写真判定にまで持ち込みましたが最後は首差及ばず2着、ロムルスは距離不安が出て5着に敗退してしまいます。ピンダリック、ミラルゴ、ロムルスはいずれもダービー挑戦を決めました。

また1962年はフランスから5頭がドーヴァー海峡を渡りました。内2頭はレース直前に英国人が購入してダービーを目指した馬ですが、最も成績の良いル・カンティリャン Le Cantilien はリュパン賞で2着した馬。フランスの名伯楽フランソワ・マテ厩舎、若手ナンバーワン騎手のイヴ・サン=マルタンが騎乗する不気味な存在です。

以上が2000ギニーからダービーまでの主な有力馬の動向。この年の5月は英国でも稀な寒さで、6月に入って漸く初夏らしさがやってくる中、ダービーは6月6日に固い馬場(firm)のエプサム競馬場で26頭によって行われました。(最終登録は27頭でしたが、直前に1頭取り消し)
例年と異なるのは、エリザベス女王が風邪をこじらせて欠席されたことでしょうか。

確たる中心馬不在の中、9対2の1番人気に支持されたのはヘザーセット。以下8対1の2番人気にはミラルゴとル・カンティリャンが続き、100対7にシルヴァー・クラウドとハイ・ヌーン、100対6でセブリングとピンダリック。他は20倍以上で、いずれにしても混戦です。

人気以上に大波乱となったのは、コースの最も標高の高い地点からタテナム・コーナーに向かう下り坂の中間地点でした。スタンドからは見え難い場所で切っ掛けは特定できませんでしたが、連鎖するように落馬事故が発生し、何と7頭が転倒してしまったのです。
その7頭とは、チェンジング・タイムス Changing Times (ゴスリング騎手)、クロッセン Crossen (ラローン)、ヘザーセット(カー)、キング・カヌートⅡ世 King Canute Ⅱ (ルイス)、パーシャン・ファンタジー Persian Fantasy (スミス)、ピンダリック(エリオット)、ロムルス(スウィンバーン)。そう、本命ヘザーセットも落馬に巻き込まれてしまったのですね。
馬ではキング・カヌートが致命傷でそのまま安楽死になりましたが、他は全て無事。騎手ではエリオットが奇跡的に無傷でしたが、他の6人は病院に搬送。負傷の程度は様々でしたが、最も重かったヘザーセットのカー騎手は回復に2か月弱を要しました。

大波乱のダービー、幸運にも事故を避けた中から勝ったのは、22対1のラークスパー Larkuspur でした。直前を走っていたヘザーセットの落馬を巧みに回避しての勝利です。2馬身差2着には何と40対1のアーコー Arcor が飛び込み、更に半馬身で2番人気の一角ル・カンティリャン。以下4着にエスコート、5着セブリングが続き、ミラルゴは11着に終わりました。
アイルランド馬の優勝、2・3着はいずれもフランス馬ということもありましょうが、いつもならダービー馬を迎えるウイニング・サークルの歓声も白けたように控えめ。現場が見えないファンの多くは、空馬が何頭も走ってきたので事故を知ったのが実情でしょう。

勝ったラークスパーはアイルランド産で1月生まれ。ヴィンセント・オブライエン師の管理馬で、師にとっては1957年のバリモス Ballymoss 以来の英国クラシック制覇となりました。(オブライエン厩舎は60年代から70年代にかけて次々とクラシックを制覇しますが、この時点ではむしろ障害レースの調教師というイメージが強かったはずです)
実はレース直後、オブライエン師は裁決委員に呼び出しを受けています。師がレース前にラークスパーが取り消す可能性を報道陣に語っていたためで、オッズに何らかの操作があったのではという疑いが持たれたからです。
ラークスパーは飛節に問題を抱えており、その調教も決して順調ではありませんでした。従ってオブライエン自身はエプサムを回避して仏ダービーに向かいたかったのですが、馬主のレイモンド・ゲスト氏(アメリカ人オーナーで、かつてアイルランド大使を務めていた方)が強くエプサム出走を主張したために最終的に出走に踏み切ったという経緯があったのです。
オブライエン調教師はその経緯を裁決委員に詳しく説明し、万事が了解されたうえでの着順確定となりました。

またラークスパーに騎乗したのは、オーストラリア人で主にフランスで騎乗することの多かったネヴィル・セルウッド。オブライエン厩舎が依頼したパット・グレノン騎手は同厩上位のセブリング騎乗を選択、ギリギリの段階で出走が決まったラークスパーには何人かが候補に挙がったものの全て先約があり、最終的にセルウッドが呼ばれたわけ。
セルウッドにとって初の英国クラシックとなったダービーは幸運に恵まれたものでしたが、運を使い果たしてしまったのか、セルウッド騎手はこの年の11月7日にメゾン=ラフィット競馬場の落馬事故で命を落としてしまいます。このとき騎乗していたのがラッキー・セヴン Lucky Seven という馬だったことは何とも皮肉なことでした。いずれにしても、ダービー・ジョッキーが制覇の年に死去するというのは前例のないことです。

ラークスパーは父ネヴァー・セイ・ダイ Never Say Die 、母スカイラーキング Skylarking 、母の父プレシピテーション Precipitation という血統。言うまでもなくネヴァー・セイ・ダイも英国ダービー馬で、古くからの「ダービー馬はダービー馬から」という言い伝えを実現した父子でもあります。これが達成されたのはほぼ四半世紀前のマームード Mahmoud (父ブレニム Blenheim)以来のことでした。
またネヴァー・セイ・ダイはラークスパーの活躍によって1962年のリーディング・サイアーに輝きますが、アメリカ産馬(ネヴァー・セイ・ダイはアメリカ産)がイギリスのリーディング・サイヤーになったのはこれが初の快挙でもありました。

ラークスパーは2歳時にカラーの未勝利戦(5ハロン)でデビューしましたが、馬が若過ぎて競馬にならず着外負け。二走目は9月、レパーズタウンの未勝利戦(7ハロン)を3馬身差で勝って初勝利を挙げます。
その内容の良さからカラーの重賞ナショナル・ステークス(7ハロン)でも期待を集めましたが、ミステリー Mystery の3着まで。この後ドンカスターに遠征してタイムフォーム・ゴールド・カップ(1マイル)に挑戦しましたが、ミラルゴの着外に敗れてシーズンを終えます。この時点でのラークスパーは、ステイヤーへの成長が期待されるもののクラシック水準には届かない、というのが一般的な評価でした。

明け3歳を迎えたラークスパーは、4月カラーのマドリッド・フリー・ハンデ(7ハロン)から始動。不良馬場の初戦は着外に終わりましたが、5月レパーズタウンのウイルズ・ゴールド・フレーク・ステークス(1マイル半)でシシリアン・プリンス Sicilian Prince (秋に仏セントレジャーを勝った馬)を破って優勝し、ダービー候補の仲間入りを果たします。
その後は既に紹介したように、飛節のトラブルで調整が遅れながらも、馬主の強い意向でギリギリの時点でダービー出走を決め、運にも恵まれてダービー馬となりました。
因みにラークスパーは、オブライエン調教師がセリで購入した価格が1万2200ギニー。1962年のダービー時点では、史上最も高価で取引されたダービー馬でもあったのですね。

ダービーの後、ラークスパーは3戦して勝利には恵まれませんでした。その意味ではプリヴィー・カウンシラー、アバーメイドと同じ道を歩みます。

先ずはアイルランド・ダービーに出走して1番人気に支持(鞍上はアーサー・プリーズリーに替っていました)されますが、タンバリンⅡ世 Tambourine Ⅱ の4着に敗退。9月まで休養してカラーのブランドフォード・ステークス(1マイル半)でも2対1の本命に推されましたが、春に破ったシシリアン・プリンスの2着に終わります。
最後のクラシック、ドンカスターのセントレジャーに駒を進めましたが、ヘザーセットの6着に敗退してシーズンを終えました。

当初ラークスパーは古馬としても現役に留まる予定だったようですが、結局は4歳時は一走もせず引退、アイルランドのバリーゴラン牧場で種牡馬生活に入ります。
ここで4年間供用されましたが、代表産駒として挙げられるのは、奇しくもラークスパー・ステークスに勝ったバリーゴラン Ballygoran 、ブランドフォード・ステークスのウェノナ Wenona 、マドリッド・フリー・ハンデのラーク・ライズ Lark Rise 、オーモンド・ステークス(GⅢ)のクレイジー・リズム Crazy Rhythm くらいのもの。1967年には日本に輸出されてしまいます。

日本でのラークスパーは、アイルランド時代よりは良い成績を残したと言えましょう。種付け初年度からは東北記念に勝ったニッショウ、2年目に京都4歳特別のアイアンを出して重賞勝馬の父となっています。
その他ではアイルランド時代の持ち込み馬スズライフルが特別に5勝、特別4勝馬ではアルクとアサカラーク、3勝組のオカプリンスなどが主要産駒。

しかしラークスパーが種牡馬として最も成功したのはブルードメア・サイアーとしてで、有馬記念を制した馬を2頭も出しているのが目を惹きます。即ちリードホーユー(母トモノヒカル)とイナリワン(母テイヤシマ)。
更にGⅠ馬では朝日杯3歳ステークスのマツフジエース(母ラヴリー・ラーク Lovely Lark)が挙げられましょう。GⅠ馬こそ出さなかったものの、ライトスピードという牝馬がミスターボーイ(マイラーズカップ)、ニホンピロブレイブ(エプソムカップ)、スズノライジン(きさらぎ賞2着)、ニホンピロスコアー(朝日杯3歳ステークス5着)と4頭もの活躍馬の母となつたことも記憶されて良いでしょう。

以上が1962年のダービー回顧です。

最後に落馬事故の原因について。
もちろんレース直後からパトロール・フィルムの検証、多くの騎手からの事情聴取が行われましたが、事故を引き起こした事実の特定には至りませんでした。
最終的に公表された見解は、ダービーに出走するだけの能力に欠けた馬が多数参加していたことにより発生した事故であり、一部厩舎や馬主のエゴで能力以下の馬が出走したのが原因である、と。

実際、落馬事故が生じた地点はバテた馬が急速に後退し、勝負に出ようとする馬がスパートを掛ける場面。その両者が交錯することによって起きた事故ということに結論付けられたようです。

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