第307回・鵠沼サロンコンサート

鵠沼でマニアックなサロンコンサートが続いているという噂は予てより聞いていました。ホームページをお気に入りに登録し、時々は覗いていたものです。
ただ、鵠沼という地名は如何にも遠く感じられ、これまで出掛けようという勇気を持つまでには至りませんでした。ここに登場する世界でも第一級の音楽家たちによる室内楽は東京でも聴けましたからね。

ところが去年の末、例によってホームページを開けたところ、「木下美穂子リサイタル」の文字が目に飛び込んできたのです。言うまでもなく木下は私が最も尊敬するソプラノ。しかし最近は活動の中心が海外に移ってしまい、東京では第9とニューイヤー・オペラでしか接する機会がありませんでした。
第9とアリア1曲の会では物足りないこと夥しく、海外遠征しかないかと諦めかけていたところ、鵠沼リサイタル発見、一も二もなくチケットを予約してしまいました。

で、鵠沼。改めてどうやって辿り着けばいいのか? 演奏会が終わって無事に帰れるのか? これらは全て杞憂、正に案ずるより産むが易し、ですな。
先ずは東海道線の藤沢を目指します。拙宅からは二通りの方法があって、西大井から湘南線に乗り横浜又は戸塚で東海道線に乗り換えるのが一つ。もう一つは大森から京浜東北で川崎に出、東海道線を捉まえる方法。
藤沢からは小田急江ノ島線で二駅の鵠沼海岸で下車、駅前の商店街を抜けて住宅街を少し北上した所に、会場のレスプリ・フランスはあります。駅から徒歩7分、道は判り易く、迷うことはありません。
乗車時間だけで50数分でした。

一つ判り難いのは藤沢からは小田急江ノ島線と江ノ島電鉄が出ていること。行きは失敗して帰りに理解したのは、藤沢で一旦駅構外に出ずともホームが専用改札口で小田急に直結していること。ウッカリ外に出て江ノ島電鉄に乗ってしまうと目的地には行けないので要注意です。
間違える人が多いようで、彼方此方に注意書きが掲示されていました。私共も間違えかけましたが、途中で気付いて無事に会場に辿り着きます。

今回の会場となるレスプリ・フランセは、普段はフランス料理店。サロンコンサートの日だけは椅子やテーブルを片付けてコンサート会場として提供しているのでしょう。ピアノが常設されているので、様々なタイプの室内楽が可能です。
もちろん一種のサロンですから定員は限られており、椅子の並べ方によっても席は増減。最大で90名くらいは入る由。今回のリサイタルは70人くらい集まったでしょうか?

サロンには三々五々ファンが集い、やはり地元の音楽愛好家が多いように見受けられました。簡単なプログラムが手渡され、席はもちろん自由で各自思い思いの席に着きます。
定刻午後7時、平井代表の出演者紹介が短く告げられ、コンサートが始まりました。前半は「日本の歌」、後半は「私の好きな歌」ということで木下の愛唱歌が選ばれています。こんな内容、

山田耕筰/赤とんぼ(詞/三木露風)
山田耕筰/中国地方の子守歌
多忠亮/宵待草(詞/竹久夢二)
越谷達之助/初恋(詞/石川啄木)
中田喜直/歌をください(詞/渡辺達生)
武満徹/小さな秋(詞/武満徹)
     ~休憩~
フォーレ/レクイエム~ピエ・イェズ(慈しみ深きイエスよ)
トゥリーナ/「カンツォーネ形式の詩」~カンターレス
オブラドルス/エル・ヴィート
ドヴォルザーク/歌劇「ルサルカ」~空の奥深くにいるお月様よ
ヴェルディ/歌劇「オテロ」~アヴェ・マリア
プッチーニ/歌劇「トスカ」~歌に生き、恋に生き
 ソプラノ/木下美穂子
 ピアノ/平塚洋子

やや緊張気味の面持ちで登場した木下、最初に山田耕筰の歌曲を2曲披露しました。ここからは彼女のトークを挟みながら次々と素晴らしい歌声が響いていきます。

“最初はチョッと緊張しています。というのもこの近さですからね。何処を見て歌って良いのやら、目のやり場に困ります”
それは聴く方も同じで、ホント目のやり場に困るほどの近距離で彼女を聴くのは初めての体験。目を瞑ったり、ガラスに映る木下を見つめたりと・・・。

それも徐々に打ち解け、彼女のトークにもリラックス度が増してきました。
“私の歩き方って変じゃありませんか。実は靴が新しくって、滑らないように歩いてるんです。普段はもっと颯爽と登場するんですヨ”ってな感じ。

“よく皆にリサイタルってオペラより楽でしょ、て言われるんですけど、実はリサイタルの方が大変。オペラは長いですけど休める場所もあって、案外遊べます。でもリサイタルはオペラの美味しい所ばかりの連続なので体力を消耗するんです。”
“私が初めてリサイタルを開いた時には偶々NHKのカメラが入っていて、曲の合間に「ガンバレ、ガンバレ」って自分に言い聞かせているのをスタッフに聞かれてしまって・・・”
という微笑ましいエピソードも披露。こういう話をしながら、息を整えるんでしょうね。木下にとっても今回は貴重な経験になったはず。

また、伴奏を受け持った平塚女史とのやり取りも楽しいものでした。木下は平塚を「相棒」と紹介しましたが、まだ二期会の研修生だった頃からの付き合いとか。様々なコンクールを総舐めした時も、ヴェルディ・コンクールを受けた時もイタリアに同行してくれたそうな。個人的にもローマやニューヨークでも再開を楽しんでいるそうです。
今回の鵠沼リサイタルが決まった時、彼女が真っ先に要求したのが“平塚さんのスケジュールを押さえてくれ” ということ。二人とも超多忙な活動を行っており、今回の競演が実現したことは二人にとっても聴き手にとってもラッキーだったと言えるのでしょう。
プログラムも二人で決めた由。前半に日本の歌、後半は好きな歌、と。木下は前々日にニューヨークから、平塚は前日に新潟から駆け付けたそうですよ。

歌も伴奏も、どれも見事なものでしたが、前半では中田喜直と武満徹が特に素晴らしい歌唱でした。どちらも公開の席で披露するのは今回が最初とのこと。
特に中田喜直の「歌をください」は、彼女の現在の心境を如実に物語っている作品の由。正に絶唱と呼べる感動的な時間を共有することが出来ました。彼女も込み上げてくるものがあった様子で、思わず私も涙を誘われてしまいました。
歌の最後にある歌詞だけでも、木下の想いが伝わってくるはず。彼女の人柄、音楽に対する姿勢を代弁しているとも言えるでしょう。

一度しかない人生
ひとつしかない命
大切に育てたい
愛の歌を歌いながら

そして時が至れば
静かに 静かに この世を立ち去ろう
美しい思い出と感謝の言葉
胸に秘めて

後半はフォーレから。先の大震災の被災者に捧げる一曲です。

スペイン語の歌が2曲。木下はスペインものが大好きだそうで、歌詞は理路整然とはしていないものの、音楽に含まれる独特な苦みが魅力なのだとか。

チェコ語で歌われたドヴォルザークではオペラの筋書きについても短く解説。得意な作品でもあり、サロンは驚きでどよめきます。

いつも彼女が語っているように、オテロは一度は舞台で歌いたいという演目。何時か木下のデスデーモナを聴ける日に期待しましょう。

トスカでは平塚とのやりとり。木下から“トスカについて一言”と。“エッ、ボーっとしてました”“ボーッとしてちゃダメですよ”という漫才も。
結局、日本にいるとトスカのような女性はあり得ないのですが、ローマに住むとアチラの女は皆トスカみたい、ということで纏まりました。

「歌に生き、恋に生き」で初めてホンモノのソプラノに接した鵠沼の善男善女はさぞ肝を潰したことでしょう。頭上のシャンデリアが落ちるのではと心配するほどの迫力でも、決して煩く聴こえないのが最高クラスの歌唱たる所以。
アンコールは、プッチーニ「ジャンニ・スキッキ」から「私のいとしいお父さん」。

小さい空間ですから、リサイタルを終えて彼女に挨拶することが出来ました。ほぼ一年振りのこと。“日本でも時々は歌ってくださいネ”、リサイタルで、とは言えませんでしたけど。

サロンを出ると空には満点の星。冷気に上弦の月が冴え、身も心も引き締まる思いでした。さすがに静かな鵠沼海岸、空気は東京より透き通っているように感じられます。

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