クァルテット・エクセルシオ第24回東京定期演奏会
前日のサルビアホールに比べるとかなりハンデキャップがありますが、引き続きクァルテットを聴いてきました。何年も通っているクァルテット・エクセルシオの東京定期。雨上がりの上野は、文化会館小ホールでのこと。
今回のプログラムは、ロマン派にもレパートリーを広げつつあるエクを象徴するように以下のもの。恒例の試演会、京都定期を経てのコンサートです。
モーツァルト/弦楽四重奏曲第11番変ホ長調K.171
ベートーヴェン/弦楽四重奏曲第10番変ホ長調作品74「ハープ」
~休憩~
ブラームス/弦楽四重奏曲第3番変ロ長調作品67
クァルテット・エクセルシオ
毎回冒頭に置かれるモーツァルト初期四重奏のシリーズ、今回は異色とも言える11番です。例によってプログラム・ノートを読み拾うと、“いままでにない曲”とか、“いまいちわからない”というコメントがチラホラ。エクの戸惑いも垣間見られるよう。
しかし私の感想では、これは初期モーツァルトでは最大傑作じゃないでしょうか、ね。アカデミアが復刻した「クァルテットのたのしみ」によれば、ズバリ「真珠の輝き」と評されています。個人的にはこちらの評価を採りましょう。
冒頭楽章の序奏も調性感が無いし、今一つ歯切れの悪い進行ですが、こうしたグレーな試みが無ければ晩年の名作たちは生まれなかったはず。背伸びとも聴こえるようなモーツァルトの実験に微笑ましさを感じても強ち間違いではない、と思いますがどうでしょうか。
ということでエクの初期モーツァルトもそろそろゴールが見えてきました。“完結したら次は何をやるんですか?” と試演会で大友チェロに詰問したら、“それは未だヒ・ミ・ツ”とはぐらかされてしまいました。やっと初期モーツァルトの価値に目覚めてきたメリーウイロウとしては、もう一度繰り返すという選択肢もありかな、と。何か13回忌(回帰)みたいネ。
前半の締めは、エク得意のベートーヴェン「ハープ」。思えば前回の定期登場(2006年?)に先立つ試演会が、小生の試演会デビューでした。あれがなければ、ここまで追い掛けることは無かったのかも。
そういう意味では実に懐かしいベートーヴェンです。言うまでも無くベートーヴェンは何度演奏しても、何度聴いても新しい発見があるもの。前回にも増してエクのスケール感と、演奏全体の見通しの良さが感じられたハープでした。
後半は、定期初登場となるブラームスの3番。定期だけでなく、公式の場でこれを演奏するのも初めての由。
試演会での感想を繰り返せば、ブラームスはやはり秋に味わう音楽でしょう。この日の上野はイチョウの黄葉も大分進んでいましたが、ブラームスの書法は多様なグラデーションを施した紅葉を見るような風情があります。それもイロハカエデの真っ赤、イチョウの黄金色一色と言うのではなく、例えばトウカエデの微妙なグラデーションを伴ったモミジ。
第3楽章のアジタートでは、主旋律を受持つヴィオラ以外の3人が弱音器を付け、ヴィオラと他のパートとの間に微妙な濃淡が生まれる。私はここに秋を感じてしまうのですな。ブラームスは出自がピアニストであるにも拘らず、弦楽器にも独特な奏法を施したのが不思議。
作品の性格にもよるでしょうが、エクのアプローチは聴き手に緊張を要求するようなものではなく、むしろリラックスしたブラームス像。試演会ではもっと強い表現を求める声もあったようですが、私はこれで正解だと感じました。確かに、ヴィヴァ―チェなんかこれ以上速く弾いたら違和感を覚えてしまう。歳の所為ばかりじゃないでしょう。
弦楽四重奏の3番は作品番号が67ですが、次の68はあの第1交響曲。二つの作品は同時に書き進められていたはずで、陰鬱で便秘症の交響曲に比べれば、クァルテットは明るく、寛いだ印象。ベートーヴェンの第5・第6交響曲のように、作曲家が対照的な性格の作品を同時に描くのはよくあることで、人間としてのバランス上必要な生理かと思慮します。
ブラームスの67と68もそうした事例の一つで、この作品は燕尾服のブラームスではなく、部屋着のブラームスとして楽しんだ方が良いのでしょう。冒頭8分の6拍子のリズムがモーツァルトの「狩」四重奏を連想させるのも、作品のディヴェルティメント風な味わいを増幅させていると思います。(そこにフッと3拍子や2拍子が紛れ込んでくるのが、如何にもブラームス)
この日のエク、女性陣は真っ赤な衣装で統一していました。あ、紅葉のイメージね、と瞬間的に思いましたが、ブラームスとはチョッとイメージが合わないようにも・・・。
尤もブラームス作品も確か42歳の時の作曲ですから、真っ赤でも構わないか。
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