英国競馬1964(1)
当ブログの中心となるヨーロッパの平場競馬は、3月中旬までシーズン・オフ。そこで、毎年恒例にしている半世紀前の英国競馬回顧で暫くの間、昔を懐かしみましょう。
今年は1964年がテーマです。最初は、5大クラシックで最も早く行われた2000ギニーの回顧から。
前年に英国で走った2歳馬を対象としたフリー・ハンデ、1961年生まれのトップに評価されたのは、ジムクラック・ステークス、シャンペン・ステークスなど5戦全勝のタラハッシー Talahasse でした。9ストーン7ポンドの評価。
これに次いで1ポンド下、9ストーン6ポンドで2位に評価されたショーダウン Showdwon は、去年同じく5戦。デビュー戦こそ2着に終わったものの、その後コヴェントリー・ステークス、ミドル・パーク・ステークスを含め4連勝。トップのタラハッシーとの対決が待たれていました。
第3位に2ポンド低く、9ストーン4ポンドのデリング=ドゥー Derring-Do というのが上位3頭。しかしこの評価にも拘わらず、競馬マスコミではタラハッシーの将来性には疑問を呈する意見も多く、馬の成長度から判断してショーダウンを上位に推す意見が多かったのも事実です。
実際に2月に各ブックメーカーが公表したオッズでは、ショーダウンが5対1の本命。続いてタラハッシーとデリング=ドゥーが10対1で2番人気という評価が大勢でした。その他ではフランス馬でロベール・パパン賞に勝ったジェル Djel が12対1、といったところ。
1964年は暦の関係から復活祭が早く、3月28日にケンプトン競馬場の復活祭開催が行われました。当時は未だパターン・レース・システムは確立されておらず、ここで行われるケンプトン2000ギニー・トライアルがクラシックに向けた最初の重賞競走と見做されていました。
そしてこの最初のトライアルにフリー・ハンデ上位2頭が登場、早くも2強の対決が実現します。現実にこのトライアルから本番を制した馬は未だ無く、各陣営とも調整過程として出走させてくるケースが多かったのも事実でしょう。前評判を受け、ショーダウンが1番人気、タラハッシーは2番人気。
結果はタラハッシー、ショーダウン共に敗退し、優勝は20対1の伏兵ペニー・ストール Penny Stall で、頭差2着にクラシックの登録が無いメイク・へイスト Make Haste という結果。ショーダウンは3着に残りましたが、着外に敗れたタラハッシーはレース直後に2000ギニー回避を発表します。
この敗戦はむしろ好材料と判断され、ショーダウンはこの結果を受けてもオッズ5対1は変わらず本命の地位をキープ。叩かれた後の良化が期待されていました。
続いて入ってきたのが、フランスのトライアルたるジェベル賞の結果。タカウォーク Takawalk Ⅱ、が短頭差で制し、2着は上記ジェルとボールドリック Baldric Ⅱ の同着というもの。この3頭にほとんど差は無く、3陣営共に英国挑戦を宣言しました。
4月14日には本番の舞台と同じニューマーケット競馬場でクレイヴァン開催が行われ、クレイヴァン・ステークスはヤング・クリストファー Young Christopher が、フリー・ハンデキャップではポート・メリオン Port Merion が勝ち名乗りを挙げます。前者は英国クラシックには登録がないため本番の下馬評には上がりませんでしたが、後者はレース内容が素晴らしく、一躍2000ギニーの有力候補に名を連ねてきました。
このあと行われたトライアルの結果を紹介すると、ニューバリーのグリーナム・ステークスはエクセル Excel 、サースク・クラシック・トライアルにはシグナル・ロケット Signal Rocket が勝ち、最後のトライアルと目されたエプサム競馬場のブルー・リバンド・トライアルはマイナー・ポーション Minor Portion が制します。
以上で主なトライアル優勝馬は出揃いましたが、フリー・ハンデ3位のデリング=ドゥーは冬場に病を得て調整が遅れ、最終的にはニューバリー競馬場での調教のみで直接本番に向かうことになります。鞍上にフランスの若手サン=マルタンを迎えることで穴人気を集めることになりました。
こうして4月29日、ニューマーケット競馬場のロウリー・マイル・コースに終結したのは27頭。クレイヴァン開催のあと暫く雨が続いたニューマーケットでしたが、当日は風が強く、時折雨がパラついたもののレース直前には日が射し、馬場は稍重 good でスタートを迎えます。
1番人気は、2月以来本命の座を守ってきたショーダウンの5対1。フリー・ハンデの勝ちっぷりが良かったポート・メリオンが11対2で続き、以下アイルランドでのトライアル勝したマルコ・ポーロ Marco Polo が10対1。休養明けのデリング=ドゥーが100対8で4番人気の評価。
フランス遠征組は比較的人気が無く、タカウォークとジェルが18対1、ボールドリックがやや遅れて20対1。エプサムのトライアル勝馬マイナー・ポーションも20対1で、トライアルで本命馬を破ったペニー・ストールは28対1、エクセルも同じ28対1。シグナル・ロケットに至っては33対1という全くの伏兵扱いでした。
ところで当時のスタートは、現在の様にスターティング・ストール(日本ではゲートと呼称)ではなく、出走馬をスタート地点に揃えてからゲート(日本ではバリアーと呼称)を引き揚げる方式。この年は27頭という多頭数もあって馬たちは中々整列せず、予定を8分過ぎてもスタートが切られません。特にボールドリックのビル・パイヤース騎手はオーストラリアで騎乗してきたジョッキーで、ヨーロッパでの騎乗はこのシーズンが最初。英国スタイルのスタートは初めてということでもあり、スターターから「馬番に拘わらず好きな所からスタートさせて良い」と許可を得てのスタート。結局はスタンドから遠い地点から発馬しました。(本来は10番スタート)
いつものように馬群は2つに分かれ、スタンド側に多くの馬が集結。レース後の各ジョッキーの談話では前半はスタンド側が優位に進んでいたとのことでしたが、丘を下る辺りでは明らかにスタンドから遠いグループがリードしていました。内・外大きく離れたゴール前、結局先頭でゴールインしたのは、スタンドから遠い側で一旦先頭に立ったファバージ Faberge Ⅱ を2馬身交わしたボールドリックでした。2着には28対1の伏兵ファバージが入り、1馬身差の3着争いはスタンド側の先頭に立っていた本命ショーダウンと遠い側を追い込んだバラストロード Balustrade との微妙な写真判定。結果はバラストロード3着、ショーダウンは4着と掲示されました。
その他有力馬では、マイナー・ポーションが5着、シグナル・ロケットは7着、以下デリング=ドゥー8着、エクセル9着、続いてタカウォークは10着、ペニー・ストールが11着。2番人気のポート・メリオンはトライアルの好走を裏切る14着と凡走し、ジェルも17着大敗に終っています。
1番人気馬が4着に敗れ、1着から3着まではいずれもスタンドから遠い側を走った夫々20対1、28対1、28対1の伏兵たち。一言で言えば大荒れの2000ギニーだったと言えるでしょう。特に勝ったボールドリックは本来ならスタンド側を走らざるを得なかった馬で、騎手が不慣れとの理由で結果有利だった外を選べたことをレース後に問題として取り上げる意見もあったようです。
いずれにせよ、ボールドリックはフランスでアーネスト・フェローズが調教した馬。既に紹介したように騎乗したパイヤースは、ボールドリックのオーナーの要望で1964年のシーズンからヨーロッパに本拠地を移した30歳のオーストラリア人で、フランスに着任したのが2か月前。イギリスで騎乗したのは、正にこの2000ギニーが初めてでした。ここまでフランスでは未勝利でしたから、パイヤースにとってはヨーロッパでの初勝利がクラシック制覇でもありました。
またフェローズ師も生まれはオーストラリアで、シャンティーで開業していた調教師。もちろん英国のクラシックは初制覇でしたが、その後も英国の大レースに縁は無く、ボールドリックが唯一のクラシック馬として記録に残っています。
ボールドリックを生産したのはアメリカのヴァージニア州にブル・ラン・スタッドを持つハウエル・ジャクソン夫妻で、2000ギニー馬は夫人の名前でオーナー登録。夫妻はパリから駆け付けての観戦となりました。パイヤースをヨーロッパに呼んだのも夫妻で、持ち馬をイギリス、アイルランドで走らせたのはこれが僅かに3頭で、その全てがクラシックに勝つという幸運にも恵まれています。
即ち最初のネヴァー・トゥー・レイト Never Too Late Ⅱ が1960年の1000ギニーとオークスを、タンバリン Tambourin Ⅱ は1962年の愛ダービーを制していました。
稿を改めて紹介しますが、ボールドリックはこのあと秋にチャンピオン・ステークスにも勝ち、加えて夫妻の持ち馬ナスラム Nasram Ⅱ もキング・ジョージを制したため、僅か2頭による3勝のみによって1964年のリーディング・オーナーの座を射止めることになったのでした。不思議なことに夫妻がフランスで走らせた馬には目立った活躍馬は無く、運命の不思議を感じさせます。
ボールドリックは、アメリカのクラシック馬ラウンド・テーブル Round Table の初産駒。馬名の「ボールドリック」は、アーサー王伝説に登場する「円卓の騎士」Round Table が肩から掛けて剣を吊る皮帯のこと。クラシック馬に相応しい美しい命名と言えるでしょう。
2歳時はフランスで4戦、ル・トランブレー競馬場の1000メートル戦に勝ち、サラマンドル賞(のちにGⅠに格付けされるレース)で2着。2歳チャンピオン決定戦のグラン・クリテリウム(1600メートル)では気性の悪さを露呈して着外に敗退(このときはレスター・ピゴットが騎乗)していました。
3歳初戦が上記ジェベル賞での2着同着。ラウンド・テーブル産駒ということでエプサム・ダービーでは9対1の3番人気に支持されましたが、直線で一旦は先頭に立ったもののスタミナを欠いて5着。7月には再び渡英してエクリプス・ステークス(10ハロン)に出走しましたが、古馬ラグサ Ragusa には歯が立たず2着。このあと秋まで休養して体調を立て直すと、ブリンカーを初めて装着したサン=クルーのパース賞(1600メートル)に快勝。4度目となる渡英でもブリンカーが奏功し、チャンピオン・ステークスも制してオーナーのリーディング獲得に貢献、シーズンを終えます。
4歳も現役に留まったボールドリックでしたが、2歳時に見せていた気性の悪さがぶり返して2戦未勝利。フランスで種牡馬入りしました。
種馬としては愛ダービー馬アイリッシュ・ボール Irish Ball 、愛1000ギニーのファヴォレッタ Favoletta を出してそこそこの活躍を見せましたが、1973年に日本に輸出されます。
日本で輩出した中央競馬の重賞勝馬は4頭。阪神3歳ステークスのカツラギハイデン、鳴尾記念など重賞3勝のハシローディー、新潟記念のナカミサファイヤなどが思い出されますが、何と言っても代表産駒は秋の天皇賞(当時は3200メートル)を制したキョウエイプロミスでしょう。ジャパン・カップで日本馬として初めて掲示板に載った馬として記憶されている方も多いでしょう。
日本の競馬との繋がりと言う視点から見れば、1964年の2000ギニーでは2着に来たファバージの方が更に成功していますね。ボールドリックより輸入が早かったこともありましょうが、皐月賞馬ハードバージ以下、名前を挙げるのは私以上に詳しいファンがおられるはず。
代表産駒アイリッシュ・ボールもまた日本に輸出されたこともあり、ボールドリックの直接のサイアー・ラインは現在では途絶えたようです。それはボールドリックに限らず、父ラウンド・テーブルも同じ。
半世紀という歳月は、血統の世界では余りにも長い時間だ、ということが言えるのかも知れません。
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