英国競馬1964(3)
半世紀前の英国競馬回顧、第3回は愈々ダービーです。
この年のダービー、実は冬場には確固たる1番人気が存在していました。それがサンタ・クロース Santa Claus 。
この馬はアイルランドで調教され、2歳時はアイルランドでのみ走ったためフリー・ハンデの対象にはなっていません。デビュー戦は8月のアングルジー・ステークスでの着外でしたが、9月に当時も重賞として認知されていたナショナル・ステークスに圧勝。何と2着以下に8馬身差を付けた強烈な印象が、彼を将来のダービー候補として多くのファンに期待を抱かせたのでした。
この時の2着がフリー・ハンデで牝馬の最高位に評価されたメソポタミア Mesopotamia で、そこから逆算しても、如何にサンタ・クロースの能力が高かったことが証明できるでしょう。
2000ギニーの結果を反映し、この時点でのダービー1番人にはボールドリック Baldric Ⅱ とサンタ・クロースが8対1で並びました。ボールドリックの父ラウンド・テーブルは1マイル4分の3のサラトガ・カップでトラック・レコードを更新した馬でもあり、距離不安は無いと見る専門家も多かったはずです。
続いて各地で行われたトライアル戦を概観して行きましょう。
先ずはギニー前のサンダウン開催で行われた10ハロンのロイヤル・ステークス。これを圧勝したオンシディウム Oncidium がダービー候補として注目されます。2着インディアナ Indiana に6馬身差を付けましたが、このインディアナもダービー候補として成長して行くことになります。
それを証明したのがチェスター開催で行われたチェスター・ヴァーズで、インディアナはこのレースでコン・ブリオ Con Brio 以下に快勝。また同じ開催で行われたディー・ステークスでは、スイート・モス Sweet Moss が勝ち上がりました。
続いてのトライアルとなるブライトン・ダービー・トライアルではチェスター・ヴァーズで負けたコン・ブリオが勝利し、連鎖反応的にダービー候補が生まれて行きます。
そして5月16日、アイルランドのカラー競馬場で行われたアイルランド・2000ギニーに愈々サンタ・クロースが出走して注目されます。調教で同馬に騎乗しているバーク騎手を鞍上にイーヴンの圧倒的支持を得たサンタ・クロース、期待通り2着以下に3馬身差を付ける圧勝で、この日カラー競馬場で観戦していたファンは彼のダービー優勝を確信したと言います。
それから6日後のリングフィールド・ダービー・トライアルではオンシディウム、インディアナの再対決の他、2000ギニー本命で敗れたショーダウン Showdown 、デリング=ドゥー Derring-Do なども参戦しましたが、今回もオンシディウムが2着以下に5馬身差を付ける圧勝。インディアナは道中の不利があったとしても4着と完敗に終わりました。この内容は、この年英国で行われたダービーのトライアルとしては最もレヴェルが高いと評価されたものです。
例年ならダービーの恰好なトライアルとなるヨーク開催は、この年は番組編成の関係から本番1週前に施行されることとなり、ダンテ・ステークスを制した スイート・モスは連闘でエプサムに向かうというハンデを背負うことになりました。
こうして迎えた6月3日の本番。1964年の英国、5月後半は天候に恵まれていましたが、31日に降り出した雨が4日間も続き、エプサム競馬場は good の発表ながら重馬場に近い状態。陽射しもあって暖かい1日にはなりましたが、時折サッと雨も通る英国特有の変わり易い天候でした。
最終的に出走馬は17頭。冬場から1番人気の座を譲らなかったサンタ・クロースは、今回はオーストラリア出身の名手アーサー・ブリズリーに乗り替わり、15対8で本命。2つのトライアルでの圧勝が認められたオンシディウムが9対2の2番人気、英国勢の期待を一身に背負う形です。2冠の掛かるボールドリックは、同じくフランスから遠征してきたロスチャイルド侯爵の不気味なコラー Corah Ⅳ と並んで9対1の3番人気。あとはスイート・モスの100対8以下、離されたオッズが続きました。インディアナは30対1。
当日の観戦記を読むと、パドックで初めて本命馬を見たイギリスの競馬ファンは、意外にもサンタ・クロースの見栄えの悪さに失望を禁じえなかったようです。馬体を見る専門家からは痩せて、肩は真っ直ぐ、繋ぎもゴツゴツしていて如何にも調教の難しそうなタイプと映ったようで、出走馬中最も貧相な馬と評した人もいたほどでした。
いよいよスタート、丘の頂上、レースを半ば過ぎた辺りではギニー3着のバラストロード Balustrade とホットロイ Hotroy 、オンシディウムが先行し、ボールドリック、インディアナなどがこれをマーク。サンタ・クロースはコン・ブリオなどと共に後方集団を形成する展開。
タテナム・コーナーから直線に入ると、バラストロード、ホットロイは脱落。英国の期待オンシディウムが先頭に立つかと思われましたが行き脚悪く、替ってボールドリックが先頭。2冠達成かと思われましたが、ボールドリックはスタミナ不足から直ぐにバテ、好位でマークしていたインディアナが抜けると、これを未だ2戦目で未勝利という全くの伏兵ディレッタント Dilettante Ⅱ が追う波乱の予感。
しかし熾烈な先頭争いを徐々に進出しながら見守っていたサンタ・クロースが視野に入ってきたのはここから。コース中程よりも更に外を通って追い込むと、ゴールではインディアナに1馬身差を付けて人気に応えていました。2馬身差で100対1のディレッタントが3着に入り、これまた100対の人気薄アンセルモ Anselmo が4着。ボールドリックは5着に踏ん張り、2番人気のオンシディウムは8着と期待を裏切りました。バラストロード9着、スイート・モス10着、コン・ブリオ13着、コラー15着などが主だった馬の結果。
パドックでサンタ・クロースを酷評した評論家たちは面目丸潰れでしたが、早速レース内容にも批判が集中します。先ずは100対1で全く実績のない馬が2頭も掲示板に載ったこと。大外を堂々と差し切ったサンタ・クロースの勝ちっぷりは見事に映りましたが、レース内容は、ブリズリー騎手は如何にも楽勝だったように馬を勝たせることで定評のあったジョッキー。サンタ・クロースが漸く前を捉えたのは残り80ヤード地点で、アイルランドで見せていた豪快な末脚とは程遠かったのも事実です。
またこの年から初めて勝ちタイムに電気計時が導入されましたが、勝時計は2分41秒98。戦後のダービーでは最もタイムの遅かったレースでした。手動計時ながら、これほど遅かったのは1949年のニンバス Nimbus がマークした2分42秒とほぼ同じ。これより遅い記録は、戦後最初にエプサムで行われたエアボーン Airborne (1946年)だけ。
ブリズリー騎手は1914年生まれ(今年が生誕100年)ですから、この年50歳。1951年にキー・ミン Ki Ming で2000ギニー、1954年にはフェストゥーン Festoon で1000ギニーを制していましたが、英国クラシックではダービー初制覇でした。(翌々1966年にシャーロットタウン Charlottown で2度目の勝利を挙げることになりますが)
この年123勝をマークしたブリズリー、リーディング・ジョッキー争いでは140勝のレスター・ピゴットの第3位に入っています。
ここでやや複雑な経緯となりますが、サンタ・クロースを取り巻く関係者たちを紹介しておきましょう。
同馬を生産したのは、ウォーリックシャーで開業医を営んでいたF・スモールフィットというお医者さん。なぜ医者が馬を生産するかと言うのは別にして、サンタ・クロースを生産した時に所有していた繁殖牝馬はたった2頭でした。ダービー馬の母はオーント・クララ Aunt Clara 。
オーント・クララの母であるシスター・クララ Sister Clara という馬は前脚に欠陥があり、たった20ギニーでドイル少佐という人物が手に入れます。ところが、この馬の妹であるサン・チャリオット Sun Chariot が英国クラシックに3勝したため、今が売り時と判断したドイル少佐は、ニューマーケットの競りで1万1千ギニーの高値で彼女を大馬主のドロシー・バジェット嬢に売りつけます。
結局シスター・クララは7頭の勝馬を産みましたが、どれも名を残すような存在ではありませんでした。オーント・クララは、その9番仔に当たります。
未だ競馬経験の無かったオーント・クララは、2歳の12月にニューマーケットの競りに出され、そこで130ギニーで落札したのが、上記スモールフィット先生。その後オーント・クララは3戦して勝てず、そのまま繁殖牝馬に上がります。サンタ・クロースは彼女の3番仔。
サンタ・クロースは当歳の時にやはりニューマーケットで競りに掛けられ、レイノルズという人が800ギニーで購入します。しかしレイノルズ氏は、翌年の秋に1200ギニーで同馬を売却(400ギニーの利益)しましたが、この時に購入したのがダービー・ロジャーズ夫人とジョン・イスメイ氏という二人の共同所有。サンタ・クロースはイスメイ氏の勝負服で出走することになります。
一方相方のダービー・ロジャーズ夫人にはミックとトムという息子兄弟がおり、ミックがアイルランドで調教師を開業していたのですね。この関係から、サンタ・クロースはミック・ロジャーズが調教することになります。
話は未だ続きます。サンタ・クロースが愛2000ギニーに勝つ直前、同馬を生産したスモールフィット先生が、私的取引で母オーント・クララを売却。その相手が調教師ミックの兄であるトム・ロジャーズ氏でした。もちろんサンタ・クロースを介し、その素質に惚れ込んでの取引であったことは間違いないでしょう。
以上、サンタ・クロースの誕生秘話でした。もちろんこれら関係者が一般の話題になったのは、サンタ・クロース関連が唯一のことです。
ダービーのレヴェルには様々な評価があったサンタ・クロースでしたが、ダービー後の評価も上昇と下降を繰り返す出入りの激しいものとなりました。
勝っても評価を落とした感のあるサンタ・クロースでしたが、次走アイルランドに凱旋して臨んだアイルランド・ダービーは、7対4の大本命で2着以下を4馬身差で切って捨てる圧勝。再び名馬としての評価を高めます。
しかし、再度遠征したアスコットのキングジョージでは、僅か4頭立ての大本命に支持されながら、伏兵ナスラム Nasram Ⅱ の2着に敗退。又してもダービー馬としての資質に疑問符が付きます。実態はパンパンの良馬場がサンタ・クロースには合わなかったのが敗因でしょう。
三冠最後となるセントレジャーは、アスコット同様固い馬場になることが確実と陣営が判断して回避。この時点でシーズン終了時には種牡馬となることが決定していたサンタ・クロースは、最後のレースとしてフランスの凱旋門賞に遠征します。
ロンシャンではジミー・リンドレ―が騎乗、23対1の9番人気と評価を下げたままでしたが、本来の力を発揮できる稍重 good の馬場にも恵まれて好走、プリンス・ロイヤル Prince Royal Ⅱ の4分の3馬身差2着でダービー馬の意地を見せ付けました。先着した相手は、キングジョージで負けたナスラムのほか、ラグサ Ragusa 、ホワイト・ラベル White Label (パリ大賞典)、ル・ファビュルー Le Fabuleux (仏ダービー)、バルビエリ Barbieri (仏セントレジャー)、ベル・シカンブル Belle Sicambre (仏オークス)など錚々たるメンバー。
この結果も考慮され、サンタ・クロースは1964年の年度代表馬に選ばれます。
期待されて種牡馬となったサンタ・クロースでしたが、真に残念なことに1970年、9歳の若さで血栓症のために死去します。
僅か5年間の供用でしたが、主な産駒としては愛セントレジャーとカーゴレー賞のレインディア Reindeer (父の名に因んで「トナカイ」の意味)、愛オークスのサンタ・ティナ Santa Tina 、ロイヤル・ロッジ・ステークスのヤロスラフ Yaloslav などを輩出。もっと供用が長ければ、この系統のサイヤー・ラインももう少し長続きしたのではないかと悔やまれます。
最後に日本で走ったサンタ・クロース産駒として、最後の世代となったウエスタンリバーが特別競走に8勝、エメラルド・ステークスなど柔らかい馬場の長距離戦で活躍したことを付け加えておきましょう。
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