英国競馬1964(4)

引き続き1964年のオークスを回顧して行きましょう。先ず2月にブックメーカーが提示したで1番人気に上がっていたのが、6対1のメソポタミア Mesopotamia でした。メソポタミアは1000ギニーには向かわず、最初からオークス一本を目指します。彼女の動向については後ほど取り上げましょう。

さて1000ギニーの結果、上位5頭の中でオークスに登録があったのは3着同着のロイヤル・ダンスーズ Royal Danseuse のみ。この時点で1000ギニーとは全く違う路線を歩む馬に注目が集まります。
一方でフランス馬に人気が集まるのも自然な流れで、ここから浮上してきたのがラ・バンバ La Bamba 。2歳時にグラン・クリテリウムでネプチュヌス Neptunus の半馬身差2着していた馬で、3歳になってからは2戦して1着と2着。共に重要なトライアルではありませんでしたが、順調に調整されていることからオークス候補に挙がってきました。

ギニーの1週前に行われたエプサム開催でプリンセス・エリザベス・ステークスに勝ったのがホームワード・バウンド Homeward Bound 。このトライアルはオークスより短い距離(8.5ハロン)ですが、本番と同じコースで行われていることで期待を抱かせます。後から見れば、これがイギリスで行われたオークス・トライアルでは最もレヴェルの高い一戦でした。11頭立てで、勝馬を含めて6頭が本番にも参戦することになります。
続いてオークス候補に上がっていたのが、オークスと同じ距離で行われたニューバリー競馬場のホワイト・ローズ・ステークスを制したボーフロント Beaufront 。2歳時は未出走でしたが、新シーズンの2戦目での勝利、エプサムのホームバウンド・バウンドと共に急激に頭角を現してきた1頭。

次の週に行われたチェシャー・オークスにも何頭かのオークス候補が出走します。人気になったのはアイルランド調教のパッティ Patti でしたが、勝ったのはパディーズ・ソング Paddy’s Song 。ここからは勝馬と、5着に終わったパッティだけがオークスに進みます。
そして5月13日に、アイルランドのカラー競馬場でアイルランド・1000ギニーが行われました。愛2000ギニーを制したサンタ・クロースがエプサムでも戴冠したのですから、注目が集まるのは当然でしょう。冒頭で紹介したメソポタミアが、このレースから始動することも話題の一つ。結果は、1番人気に支持された1000ギニー3着(同着)馬ロイヤル・ダンスーズの圧勝。2着以下は4馬身差を付けられ、3着に終わったメソポタミアはレース後も順調さを欠き、オークスから脱落してしまいました。この結果、ロイヤル・ダンスーズのオッズは4対1に上がり、一旦はオークスの本命馬に祭り上げられます。
しかし牝馬のクラシックを巡る評価のアップ・ダウンは未だ続きます。何頭かの浮き沈みが報告されたあとで行われたリングフィールド・オークス・トライアルは、ニューバリーで名前を挙げたボーフロントが2着以下に5馬身差を付ける圧勝となり、彼女のオッズも8対1に急上昇。こうして確たる本命馬が定まらない中、6月5日の本番を迎えます。

ダービーのあとエプサム競馬場のあるサリー地方は丸2日間雨が降り続き、馬場はダービーより大きく悪化して不良馬場 heavy になっていました。最終的に参戦したのは18頭。人気はレース直前になっても激しく入れ替わり、パドックの状態、厩舎情報、馬場の巧拙などの要因でファンの気持ちが大揺れに揺れていたことが窺えます。
結局3対1の1番人気に落ち着いたのは、未だ一度も3着以内に入ったことの無い未勝利馬のパッティでした。人気の要素は彼女のプレンダーガスト厩舎での評判で、同厩舎の事前の調教でダービー3・4・6着(ディレッタント、アンセルモ、クレート Crete)に先着したから、というもの。未勝利馬の1番人気という事実が、この年の混戦を物語っているではありませんか。
続いてはボーフロントが9対2で2番人気、一時期評価が高かったフランスのラ・バンバは、やはり一時1番人気に上がったこともあるロイヤル・ダンスーズと並んで10対1(4番人気)。紹介は省略しましたが、ラ・バンバの他にフランスから遠征してきたアーニカ Arnica がラ・バンバより上の3番人気(6対1)だったということも、この年のオッズの面妖さを表していると言えるでしょう。結果的に勝つことになる6番人気(100対7)のホームワード・バウンドに至っては、パドックの評価は最低。あるレポーターは“この場にいるのが相応しくない馬”と酷評したほどで、彼女の場合、もし良馬場なら出走させないと陣営が表明していたことも低評価の要因だったのでしょう。

さてレースの本番。馬場が悪いこともあり、どの騎手も先頭に立つ気配はありません。結局ハナに立ったのはラ・バンバでした。丘の下りでパディーズ・ソングが2番手に上がり、これをパッティやホームワード・バウンドが追走。50対1の最低人気の1頭、ウインドミル・ガール Windmill Girl がバランスを崩したか、ズルズルと最後方に下がるのが目に留まります。
直線に入って残り2ハロン、パッティが末脚を伸ばしてラ・バンバに並び掛けましたがここまで。そのままラ・バンバが逃げ切るかと思われた瞬間、ホームワード・バウンドがあっという間に逃げ馬を交わして先頭に立ち、勝負は決したかに見えました。しかし未だドラマは続きます。
タテナム・コーナーでは一旦後方2番手まで下がっていたウインドミル・ガールが、状態の良い馬場の中央を通って鬼脚を発揮、一気に前との差が詰まります。しかしそこから突然スタンド側のラチ沿いに向かったウインドミル・ガールは、かつてダービーでもオークスでもどの馬も通ったことが無いような外ラチ沿いのコースを矢のように伸びます。最後はホームワード・バウンドに2馬身届かなかったのですが、テレビやラジオで観戦していたファンは、実況アナウンサーの口からは彼女の名前は一度も発せられず、結果でのみウインドミル・ガールの2着を知ったほど。つまりテレビ・カメラにも映らないようなコースを通っての強烈な追込みだったことになります。

1馬身差の3着にはラ・バンバが逃げ粘り、本命パッティは4着。以下2番人気ボーフロント6着、3番人気アーニカ7着、ロイヤル・ダンスーズは12着に敗退し、パディーズ・ソングも最下位の18着に終わりました。

ドラマチックなオークスを制したホームワード・バウンドを調教したのは、ジョン・オックスレー師。このとき34歳の若手調教師で、高名なジョージ・コーリング師の元で研鑽を積んだ人。1959年にコーリング師が亡くなった後を受け、ニューマーケットのハーワス・ハウス・ステーブルを継承してきました。英国のクラシック制覇は、1964年のオークスが唯一となります。
ホームワード・バウンドは、オーナーであり彼女の生産者でもあるフォスター・ロビンソン氏にとっても唯1頭のクラシック馬。ブリストルのビジネスマンであった氏は、競馬だけでなくクリケットの世界でも有名人で、遡ること1919年から1922年に掛けてはグロスター州(イングランド南西部、チーズで有名)のクリケット・チームのキャプテンだったそうです。
長年コーリング師が氏の所有馬を調教してきましたが、クラシックは弟子のオックスレー師に引き継がれてからの実現。もし馬場が乾いていたらホームワード・バウンドをオークスには出走させなかった、というのは事実で、馬場が味方したクラシック制覇と言えるでしょう。前年のダービーでレルコ Relko の2着したマーチャント・ヴェンチュラー Merchant Venturer もロビンソン/オックスレーのコンビだったことを付け加えておきましょうか。

最後にホームワード・バウンドを勝利に導いたグレイヴィル・ステーキー騎手に付いても一言。
スターキーにとっても、このオークスが英国クラシックの初制覇でした。当時は25歳の若手で、オックスレー厩舎の主戦騎手。後の話ですがオークスを1978年にもフェア・サリナイア Fair Salinia で制し、その年はダービーのシャーリー・ハイツ Shirley Heights とも組んで、英愛ダービー・オークス4勝と言う快挙を成し遂げることになります。他にクラシックは2000ギニーに2勝し、合計5勝を記録。スター・アピール Star Appeal の凱旋門賞もありましたっけ。
スターキーと言えば1986年のジャパン・カップでアレ・ミロード Allez Milord を御し、パット・エデリー騎乗のジュピター・アイランド Jupiter Island と首差の激闘を演じたことを記憶されている方も多いでしょう。2010年に70歳で癌に倒れるまで、多くのファンに愛された剛腕ジョッキーでした。個人的には、1978年当時日本のテレビで解説をしていた元某Wジョッキーがその躰を上下する激しい追いっぷりを見て、“下手ですねェ~” と見当違いな感想を述べていたのを思い出します。

重馬場での勝利はフロックと見做されたこともあったホームワード・バウンド、オークスの後は夏まで休養、ヨーク競馬場のヨークシャー・オークス(馬場は good )を勝って実力を証明します。3歳最後はロンシャンのヴェルメイユ賞遠征でしたが、ここは1番人気で着外。
4歳も現役に留まったホームワード・バウンドでしたが、前年の体調は維持できず2戦して未勝利。それでもコロネーション・カップとドンカスター・カップで入着を果たしています。
2歳時には新馬戦に1戦して未勝利、最初の勝鞍がオークス・トライアルとなったプリンセス・エリザベス・ステークスでしたから、通算3勝で繁殖に上がったホームワード・バウンド。オーナーの死去に伴ってアメリカに売却され、産駒はヨーロッパとアメリカの両方に残されています。

即ち、ヨーロッパに残した最後の娘プライム・アボード Prime Abord はフランスで3勝し、モルニー賞とグラン・クリテリウムに勝ったスーパー・コンコルド Super Concorde の母にもなりました。
またアメリカで産んだ最初の娘ラッキー・トラヴェラ― Lucky Traveler は、現在ではGⅠに格付けされているテスト・ステークスの勝馬。母馬としても成功した1頭と言えましょう。

彼女のファミリーを7代遡れば、日本の基礎牝系を築いたフロリース・カップ Flories Cup に繋がります。日本の多くのクラシック馬たちと遠い親戚関係にあることも忘れてはならないでしょう。

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