読売日響・第535回定期演奏会
漸く暖かい空気が春を告げた首都圏、読響の2013-14シーズンを締め括る3月定期が開催されました。列島が過去の災害に想いを馳せる季節、鎮魂を籠めたプログラムが取り上げられました。
ドヴォルザーク/レクイエム
指揮/下野竜也
ソプラノ/中嶋彰子
メゾ・ソプラノ/藤村実穂子
テノール/吉田浩之
バス/久保田真澄
合唱/国立音楽大学合唱団(合唱指揮/田中信昭、永井宏)
コンサートマスター/長原幸太(ゲスト)
個人的にはドヴォルザークの最高傑作だと信じているレクイエム、日本でも何度か演奏されてはいますが、決して演奏頻度の多い作品ではありません。貴重な体験の一つ、クラシック音楽ファンなら一度はナマ演奏に接したい大作でしょう。
かつてワルベルク指揮のN響で聴いた記憶がありますが、あれから何年が経過したでしょうか。
今回はドヴォルザークには拘りのある下野竜也の棒、ソリストにも考えられる最高の布陣。残念ながら予定されていたバスの妻屋秀和が体調不良によりドクター・ストップがかかり、久保田真澄がピンチヒッターに立ちました。
どうやら本番ギリギリでの交替だったようで、プログラムも既に当初の予定で印刷済み。当日、チラシが挿入される形で告知がさなれていました。頻繁に歌われるパートでは無いだけに、今回の代演にはいろいろ苦労が伴ったと思慮します。先ずその点、久保田氏に敬意を表しましょう。
作品は休憩を入れず、全13曲が通して演奏されました。大きく第1部、第2部に分けられる構成。前半(第8曲まで)は哀悼・苦悩・恐怖といった暗い音調で占められるのに対し、後半は慰め・平安といった明るい信仰心が中心になります。
しかしながら全体は冒頭に登場する四つの音、半音階的進行とシンコペーションを含んだ動機で統一され、作品に統一感を与えています。ベルリオーズでいう「固定楽想」、フランクなら「循環主題」という位置付けでしょうか。この動機を仮に「四音動機」としておきますが、「死の思想」と解説する書物もあるくらいです。
この四音動機、実はバッハのロ短調ミサ第3曲「キリエ」の冒頭と同じ進行で、ドヴォルザークが意識的、あるいは無意識のうちに引用したとも考えられます。
オーケストレーションも独特で、通常の2管編成にピッコロ、イングリッシュ・ホルン、バス・クラリネット、コントラファゴットといった第3の木管が使われます。特にイングリッシュ・ホルンとバス・クラリネットには上記「四音動機」が繰り返し登場し、作品全体の色調を決定づける要素にもなっています。
その他にも付加的に2本のトランペットが用いられたり、ドラとチューブラー・ベル(カンパネラ)、オルガンとハープにも重要な役割が与えられますが、それは後述することにしましょう。
ということで、今回は各曲の内容と演奏で目立った点などを順に記録して行きます。
第1曲「Requiem aeternam」 冒頭に四音動機が提示される。最後に女声合唱が pp で語りかけるように歌い交わすキリエ・エレイソンとクリステ・エレイソンが印象的。
第2曲「Graduale」 前曲から引き続き、ソプラノが無伴奏で四音動機に載せて Requiem aeternam と歌い出す。下野は第1曲からそのままアタッカで続け、音程の取り難い(はず)ソプラノ・ソロに配慮したのでしょう。
第3曲「Dies irae」 オルガンとティンパニの通奏低音が響き、低弦に sf で出るリズム動機が一貫して聴こえる。4分の6拍子ながら行進曲風(ア・ラ・マルチア)な怒りの日。この曲から第1部最後の第8曲までは一つの大きな「楽章」として捉えられると思います。
第4曲「Tuba mirum」 2本のトランペットがユニゾンで四音動機を提示。ドラが響き、舞台裏に置かれた2本のトランペットがエコーを吹く。これが3度繰り返され、ドラは夫々 ppp→ p→ pp と抑揚を付けて奏される(3・4番トランペットとドラが使われるのはここだけ)。後半「Dies irae」が再現されるが、第3曲を上回る激しさ。ピッコロやホルンの咆哮に加え、頂点ではカンパネラが乱打され、地獄絵巻が展開。
ところで今回はチューブラー・ベルをP席オルガンに隣接して配置。ドラを叩いた奏者がP席に移動して鐘を叩きました。このパート、実はドヴォルザークがスコアに「カンパネラ」とだけ書き残しただけで、具体的にパート譜はありません(従って音符も)。練習記号Fに開始を意味する「Camp」の指示と、15小節後の終了を意味する合図だけ。事前にチェックした音盤では、多くがこの楽器を使用していないようですが、ここは下野の判断で、恰も江戸時代の火事の半鐘の様な使い方で処理されていました。
第5曲「Quid sum miser」 女声合唱の歌い出しに続き、バス・クラリネットが不気味に四音動機を提示。Rex tremendae で合唱が「Rex!」を呼び交わし、最後はティンパニによる葬送のリズムで静かに閉じられる。下野はここまでをほとんどアタッカで一気に演奏し、この曲が終わった所で一旦合唱を座らせました。
第6曲「Recordale, Jesu Pie」 作品中合唱が登場しない唯一の曲。テノール・ソロが美しい旋律で歌い始め、独唱の四重唱にヴァイオリン・ソロが絡む。四音動機が出ない数少ない平穏な楽章。
第7曲「Confutatis maledictis」 再び合唱が起立。激しい Confutatis と、慰めるような vocame が対照的。四音動機が合唱の中に巧みに織り込まれます。
第8曲「Lacrimosa」 四音動機が先ず金管、次いでイングリッシュ・ホルンとバス・クラリネットのユニゾンで登場し、跳躍の大きいラクリモーザが歌われていく。最後はアーメンの連呼に続き、ティンパニの弱音によるディエス・イレのリズム動機が第1部全体を締め括りります。
ここまでが第1部で、下野は一旦指揮台を降り、暫しの沈黙を経て再び指揮台に。
第9曲「Offertorium」 冒頭は木管十重奏によるコラール。弱音器を付けた弦合奏の伴奏にハープ(この曲と次の第10曲のみで使用)が和し、アルト・ソロが歌い始めるドミネ・イェーズはほとんど讃美歌の世界。弦の伴奏を、譜面に無くとも次第にディミニュエンドさせて歌唱と聴き手に歌を浸透させていく手法は音楽演奏の初歩、というか第一歩。平和な歩みの中にも四音動機が忍び寄り、最後は古いチェコの讃歌を引用したという「Quam o-lim Abrahae」の壮大なフーガ。
第10曲「Hostias」 前曲と同じテーマに基づくホスティアス。男声四部合唱のみでコラールの様に繰り返される「Fac eas Domine」が限りなく美しい。ハープにヴァイオリンのソロ、ヴィオラのソロも花を添え、最後に第9曲のフーガが繰り返されて曲を閉じる。この曲にも四音動機は登場しません。
第11曲「Sanctus」 6拍子の前半と9拍子の後半。後半は声楽パートに四音動機が侵入するも、最後は全奏による堂々たるホザンナで締め括られる比較的短い楽章。
第12曲「Pie Jesu」 前曲サンクトゥス主題が木管合奏の柔らかい響きに姿を変えて奏される。最後にチェロに四音動機が出るが、フルートのソロが慰めるように寄り添う。フォルテ以上には激さず、これも短い楽章。
第13曲「Agnus Dei」 大雑把に言えばABAの三部形式。4小節の前奏に続きイングリッシュ・ホルン+ホルン+チェロが四音動機を提示すると、テノール・ソロが Agnus Dei と歌い始める。これを受けて混声四部合唱が Agnus Dei, qui tollis peccata mundi と情感豊かに答える。これが三度繰り返されると、弦にトレモロが起こり、中間部の Lux aeterna 。オルガンも加わり作品全体のクライマックスとも言える全奏の fff で頂点に達すると、下降3度が出現して構成は Agnus Dei に回帰。
さてこの下降3度、ドヴォルザークの先輩であり友人でもあるブラームスが、死を意識する場面で常に登場させた3度下降と同じであることにも注目したいと思います。もちろん無意識で使われたのでしょうが、ここは作品全体でも最も印象的な個所であることは間違いありませんね。最後は四音動機が止めを刺すように響き、音力を弱めて終結を迎えます。
1時間半に及ぶ全曲が終了、下野は指揮棒を下ろした後も、なお暫くは祈る様に指揮台に立ち尽くしました。数日間続く鎮魂の想いがあったのは当然でしょう。
このあと客席からは拍手喝采が続きましたが、個人的には拍手は静かであって欲しかったように思います。優れた演奏であったことは、心の隅に留めておくのがより相応しいと考えたからです。
下野の推進力ある名演、最後のアニュス・デイで残念な所が一か所ありましたが、全体を傷つけるような事故ではありません。このコンサートは日本テレビが収録しており、後日「読響シンフォニック・ライヴ」で放映される由。
最後に下野について。彼はこの4月から京都市交響楽団の首席客演指揮者にも就任しますが、京響4月定期では早速就任披露コンサートを振ります。そのプログラムは、ドヴォルザークの序曲三部作全曲とマルティヌーのオーボエ協奏曲にヤナーチェクのシンフォニエッタというオール・チェコ音楽構成。
ドヴォルザークは、今回のレクイエムを作曲した翌年、件の序曲三部作を完成します。その第3曲たる「オセロ」では、レクイエムの中心であった「四音動機」を引用するのですね。具体的には、オセロがデスデーモナを殺害する直前。引用の意味はもちろんお判りでしょう。
チェコではこの「四音動機」が他の作曲家にも引用される例が多く、昨秋東京都響でフルシャが紹介したスークのアスラエル交響曲ではその第2楽章にハッキリと登場。
またマルティヌーも第3交響曲と第6交響曲に、更にはやはり都響でも取り上げられたオーボエ協奏曲でも第2楽章のカデンツァの直後に僅かに引用されます。この辺りになると無意識にかも知れませんが・・・。
下野の京響4月定期は、このオセロとオーボエ協奏曲とが取り上げられます。あるいは意識した曲目編成では無いかも知れませんが、大元のレクイエムを演奏した直後だけに、何らかの意図を読み取りたいところ。
京都では演奏会に先立って指揮者によるプレトークが行われるのが通例。京都の会員の皆さん、4月はマエストロの話にレクイエムについての言及があるかも知れません。どんなプレトークになるか、楽しみにしてくださいナ。
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