読売日響・第466回定期演奏会

読売日響、今年最後の定期。名誉指揮者・尾高忠明を迎えてのエルガーがメインです。

マルトゥッチ/ピアノ協奏曲第2番
~休憩~
エルガー/交響曲第2番
指揮/尾高忠明
独奏/ゲルハルト・オピッツ
コンサートマスター/デヴィッド・ノーラン
フォアシュピーラー/小森谷巧

指揮者は60歳を過ぎてから、と言われますが、必ずしも当たっているとは思いません。しかしこの言葉が正にピッタリというのが尾高でしょう。これまでは楽譜を正確に音にするだけ、という感の拭えなかったマエストロ(本人曰くチューストロ)ですが、最近は作品の本質に迫ろうとする姿勢、演奏家としての主調を前面に出すようになってきています。
私はその変化を日本フィルへの客演や、ミューザでの読響で確信するようになっていましたから、今日のエルガーも大いに期待を抱いて出掛けました。

結果は、期待をはるかに上回る素晴らしいコンサート。個人的には今年の読響ベストに挙げたい気持ちですね。もちろんスクロヴァ翁のブルックナー、ヴァンスカのベートーヴェンにも感動しました。しかしこのエルガーは、私にとって最大の収穫、それが日本人マエストロの手で達成されたことを率直に喜びたいのです。

その前に、最近の定期の入りが悪いのが気になります。この日も満席には遠く、空席が目立ちました。前々日はN響を聴きましたが、その入りにも遠く及びません。Nは指揮者が若い(下野)ためにチケットが売れていないという噂でした。しかし実際は随分入っていました。二日連続公演でもあの入り。人気を比較すれば、読はNの半分以下ですね。同じ下野でも、読10月定期は惨憺たる入りでした。曲目はどちらも近現代もので、選曲の所為にはならないでしょう。
なぜこれが気になるかというと、さすがの読響も思い切ったプログラムが組めなくなるのではないかという懸念があるからです。実際、発表された来期のプログラムは、他の東京のオケに比べれば斬新ではあるものの、今シーズンに比較すれば、やや保守化の傾向があります。そのためにも定期会員の積極的支援が欲しいところですが・・・。

エルガーに戻りますが、今年はエルガー生誕150年。第2も他のオーケストラで聴きました。この作品については、コミュニティにも書きましたが、2002年にいくつもの素晴らしい演奏で体験しています。
しかし当夜の尾高/読響、間違いなく私が体験した最高のエルガー第2と断言してよいと思います。
このシンフォニーには、実に細かい音符が縦横に書き込まれています。尾高は一音も曖昧な所を残さず、全ての音に意味を篭めて演奏し切っていました。
第2は長い曲です。どんな演奏で聴いても、若干退屈する箇所があるのですが、当夜は全編これ充実。全く長さを感じさせません。

オーケストラの充実度、大変なものです。尾高の意図を完全に理解し、共感を持って演奏していることは、手に取るように解ります。演奏が終わった後の、指揮者に対する賞賛は本物でした。見ていて解りますよ。
金管軍の素晴らしいこと。今日のトランペット主席は久し振りに長谷川。彼が加わったときの金管は世界トップクラスです。一昨日のN響との差は歴然。

ただしこの名演、フライング拍手が見事にぶち壊してくれました。何でオケが鳴り止んだとたんに、我こそは、と手を叩くのか。尾高氏は棒を下ろさず、演奏姿勢を維持したまま拍手を制そうとしましたが、無頼漢どもはそれをも無視。結局マエストロが負けて、オーケストラに終了の合図を送ったのでした。

読響は素晴らしいオケです。しかし聴衆は最低。これまでも数々の名演が無頼漢どもによって邪魔されてきました。残念、としか言いようがない。
この日はエルガーを深く愛する聴衆と、全く理解しない聴き手の二手に割れていました。まだまだエルガーには前途多難な道が続くでしょう。

前半のマルトゥッチ。美しい作品ですが、忘れられただけのことはあります。ここにはエルガーが表現した人間の悲しみ、苦悩が感じられません。楽しさ、美しさには事欠かないのですが、現代の聴衆には、それだけではアピールするものが不足しているのでしょう。オピッツは健闘しましたが、いかんせん作品が、という印象。

それにしても尾高のエルガーの素晴らしかったこと。来年9月の札幌、ピーター・グライムズを本気で聴きに行こうかしら、と考えている所。

 

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