日本フィル・第589回定期演奏会
昨日は日本フィルの定期です。初台に向うのですが、やはり不便ですねぇ。新宿まで出るのは問題がありませんが、丸の内線の駅から京王新線の改札まで歩くのが遠い。案内板の通りに進んでも、いつまで経っても着かない。時間に余裕がなければかなり焦りますね。
ということで、初台は苦手。帰りは車なのでよいのですが、行き帰りとも京王を使うのならコンサート行きは躊躇ってしまいます。ホールの音響とは別の話。
日本フィルの4月定期は尾高忠明氏の指揮で2曲、モーツァルトの交響曲第40番とマーラーの第4交響曲、マーラーでのソロは天羽明恵さん。東京オペラシティではモーツァルトが連続して取り上げられますが、尾高氏の受け持ちはト短調です。
一見して分かるとおり、これはト短調とト長調(マーラー)の対称プロでもあります。どちらも単純そうに見えて、実は難しい。プログラムにも大書してありましたが、どちらも作曲者32歳のときの作品です。
私は非常に良い印象を受けました。何といってもマエストロの指揮が人柄を表わしていて、派手さとは無縁、しっとりとした味わいに満ちたものでした。
モーツァルトは晩年の作ですが、何といっても32歳。普通の人間ならまだまだ青春時代じゃありませんか。それを今年還暦を迎えるマエストロが振る。
音楽は決して枯れ山水にはならず、若々しく瑞々しく進行して行きましたね。聴いている方は音の流れに身を任せているだけですが、このように鮮度を失うことなく音譜を音にしていくのは極めて難しいことでしょう。モーツァルトの難しさを微塵も感じさせない手腕に拍手。提示部の繰り返しは全て実行していました。クラリネットが登場する第2稿を使用。
マーラーもまた32歳の作、同様に難しい。マーラーは皮肉屋で、ここにもパロディがぎっしり詰まっています。
尾高氏はそういう面を強調するのではなく、ここでも自然に楽章を進めていきます。チョッと聴くと何の工夫も無いように聴こえますが、そうではありませんねぇ。
この交響曲は後ろから見返した音楽です。第4楽章が前提にあり、それに先立つ三つの楽章は回想と取れる。
最初の鈴の音に工夫がありましたね。第4楽章の鈴とは明らかに響きが違う。敢えてそうした、と聴きました。くすんだ音を出すのです。楽器は同じでしょうが、あまり響かせないように叩くことによって、木質の響きを出していました。これが如何にも「過去の想い出」「昔見た夢」という雰囲気を出すのです。素晴らしいアイディアだと思いました。
第2楽章の「死の舞踏」は別にして、他の楽章ではそのコーダに特別な注意が払われていたことを聴き逃してはいけません。
第1楽章ではホルンのソロ以降、音楽がアダージョに落ち、これまでの歩みを振り返るようなピチカートとヴァイオリンのフェルマータ。
第3楽章では最後の16小節。ホ長調が主調であるト長調に転調してからのハープと第2ヴァイオリンの下降線。
第4楽章では最後の楽節。Keim Musik ist ja 、『音楽も 地上のそれとは 比較にならぬ 素晴らしさ』。前節の pp から更に一段落として ppp で囁き歌う箇所のオーケストラ。
私には、これらが全て「振り返りの音楽」として感じられるように演奏されていたと思えるのです。わざとらしさは微塵もありません。巧まずして尾高氏の円熟、人格が成せる業なのではないか。
これまで尾高氏に対する印象は、話は凄く面白いけれど、音楽は温厚というか、特に刺激を感ずる人ではない、というものでした。
最近やっと分かって来たのですが、このマエストロはゆっくりだけれども確実に円熟の道を歩んでいます。そのことを確信させるに足るモーツァルトであり、マーラーでした。
マエストロが特にイギリスで高く評価されていることにも納得です。
日本フィルも会場に適したサイズで美しい響きを実現していました。
モーツァルトでは10型、マーラーでは14型での演奏。モーツァルトの場合は、リハーサルの途中でこの型に変更した由。
お陰で木管の美しさが際立っていました。それはマーラーも同様です。
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