日本フィル・第641回東京定期演奏会

梅雨の晴れ間、日本フィルの6月東京定期を聴いてきました。サントリーホールは大ホールとブルーローズ同時公演、隣ではヘンシェルQのベートーヴェン・チクルスが行われています。

シューベルト/交響曲第7番「未完成」
     ~休憩~
ブルックナー/交響曲第9番
 指揮/小林研一郎
 コンサートマスター/木野雅之
 ソロ・チェロ/菊地知也

前日は読響でプロテスタントの作曲家を聴きましたが、翌日は南ドイツ・カトリックの大家ブルックナーがメイン。同じドイツでも根幹的な部分で対照的な音楽を聴くことになりますね。比較するな、と言っても無理がありましょう。

ところで今回は日フィル桂冠指揮者・小林研一郎の「指揮者デビュー40周年記念」と銘打たれたコンサート。40年か、おめでとうございます、で通り過ぎるのも失礼と思い、古い資料を捜すことに。
そもそもコバケン氏の指揮者デビューは何時だったのか、どうもハッキリしません。かつてマエストロ・サロンで1974年のブダペスト国際指揮者コンクールでのエピソードを伺ったことはありますが、指揮者デビューについては謎。例によって「日本の交響楽団」で氏の記録に当たって見ました。

日本のプロ・オケの定期に小林研一郎の名前が出てくる最初は、群馬交響楽団の第108回定期、1970年(昭和45年)3月20日の群馬音楽センターでのことです。この回は小林氏の他に藤田翼也(ふじた・よくや)という方が出演し、二人で一晩のプログラムを分担して振っていました。コバケンの担当は前半で、ベートーヴェンの「献堂式」序曲と、やはりベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(独奏は外山滋)。藤田氏はベートーヴェンの第5交響曲を受け持っています。
単独での初登場は、翌1971年1月14日に同じ会場で行われた群響の第116回定期。曲目はヨハン・シュトラウスのこうもり序曲、ラフマニノフの第2ピアノ協奏曲(独奏は井内澄子!)、フランクの交響曲というものでした。
もちろん指揮者デビューなら定期演奏会以外でということもあるでしょうが、1970年をデビューとすれば、既に40年を2年も上回っていることになります。マエストロ自身はこれを計算に入れていない、あるいは入れたくないのかも知れませんね。

この後日本のオーケストラの定期登場は3年後、1974年まで待たなければなりません。つまりブダペストのコンクール優勝後に本格的な指揮活動に入ったことが判ります。74年は名古屋フィルと東京交響楽団、以下毎年のようにN響、都響と活躍の場を広げていきました。
日本フィル定期の初登場は1980年1月、同フィルが現在の体制に分割された後のことで、この時のプログラムは芥川也寸志の弦楽のための三楽章、サン=サーンスの第3ヴァイオリン協奏曲(独奏は塩川悠子)、ショスタコーヴィチの第5交響曲。これが日本フィルとの出会いだったとすれば、両者の関係は32年目という計算になります。もちろん出会いはそれ以前だったのでしょう。

今回のプログラムには平林直哉氏の寄稿が掲載されていましたが、現在のマエストロは漸くベートーヴェンの交響曲全集を開始、独自の境地を拓きつつあるようです。それは唯我独尊とでも表現したくなるもので、今回の二つの「未完成」交響曲の演奏にも良く出ていると感じました。
しかも後半で取り上げるブルックナーの第9交響曲は、氏の40ウン年のキャリアでも初めて挑戦する作品。その意味でも話題になっているコンサートでした。定期2日目はチケット完売だそうですし、初日の昨日も当日券は40枚だけだった由。

冒頭のシューベルトは、静かに閉じられる音楽としてはコバケンが定期的に取り上げているもの。今夏には読響とも演奏予定ですし、日フィルとは何度も演奏しています。あまりコバケンを聴かない私は多分初体験でしたが、氏ならではの拘りが感じられました。

先ずはホルンの位置。昨今の日フィルではホルンは舞台下手が定位置ですが、シューベルトでは上手、ファゴットとコントラバスの間で吹かせていました。
最初は後半のブルックナーでワーグナー・チューバと対比させるために上手に置いたのかと思いましたが、実際にはホルンとワーグナー・チューバ―は下手に纏めていました。こうなると何故シューベルトだけ上手だったのかは謎。聞く所によると本番で突然に変更したのだとか、唯我独尊コバケンの面目躍如といったところでしょうか。

演奏も変わっていました。第1主題のフレージングが独自のもの。一番低いCに向けて膨らませ、急速に減衰するように抑揚を付けるのです。第1楽章の最後の和音もコバケン流。その前の三つの和音ではティンパニ前打型なのに対し、最後の一音ではコントラバスからググッと鳴らし、ティンパニは p に落としてしまう。
“やったな”と思う間もなく、休止を置かずに第2楽章に入るのも独特。この楽章の最後も、16分音符は次第にテンポを落とし、3拍子というより6拍子の趣。これを認めなければコバケン・ファンにはなれないでしょう。

そしてブルックナー。
ファンには堪えられない魅力があったようですが、私には別の意味で堪えられないブルックナーでした。特に問題と感じたのは第3楽章。これはね、ブルックナーというよりマーラーでしょ。とても死を目前にして、神に捧げた音楽には聴こえてこないのです。現世への未練タップリなブルックナーとでも言おうか。

最後の楽章は、ブルックナー独特の緩徐楽章形式であるABABAが崩壊し、最後のAは作曲家の遺言、あるいは妄想と私は考えています。練習記号Lでは神が降臨し、同Rでは天国と地獄の闘いが決着して死を迎え入れる。
ところがコバケン解釈では神の降臨も無いし、死の受容は単なるフェルマータ休止に過ぎない。ファンの方々には申し訳ありませんが、私にはそのようにしか聴こえてこなかったのですね。
実に長く感じられたブルックナー、特に第3楽章でした。7番と8番が良かっただけに、今回の9番は失望です。

何とも言えない脱力感を覚えながら席を立つと、客席に意外な人物を発見。即座には演奏会場とは結び付かないような有名人です。やはりコバケン氏には理解を超えたカリスマ性があるのでしょう。これも音楽ではあります。

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