SQWのシューマン・クァルテット

演奏会カテゴリーの前回の日記で書いたように、11月の最終日、晴海の第一生命ホールでシューマン・クァルテットを聴いてきました。
かつてトリトンのクァルテット・シリーズはほぼ毎回の様に通っていたものですが、最近では「SQW」の方針が変わってしまったようで、年に一度か二度通う程度。晴海への行き方も覚束なくなってしまいました、というのは冗談ですが、久し振りに晴海に降り立ちました。

鶴見で出会ったシューマン・クァルテットについては繰り返すまでもないでしょう。これまで数多く聴いてきた団体の中で、これからもずっと聴き続けたいと考えているグループの一つ。今回はサルビアホールとトリトンの2回だけでしたが、会場で遭遇した知人とも、日本中何処へでも追い掛けていきたいね、と話したほど。
晴海のプログラムは、鶴見とは全く異なる次の3曲でした。

ハイドン/弦楽四重奏曲第79番ニ長調作品76-5「ラルゴ」
アイヴス/弦楽四重奏曲第2番
     ~休憩~
ベートーヴェン/弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調作品131
 シューマン・クァルテット

一見しただけでは選曲の意図が見え難いのですが、やはり聴いてみると、3曲とも作曲当時の「前衛音楽」だった、ということで統一されているようです。プログラム誌の解説で渡辺和氏がエリックから巧みに訊き出しているように、シューマン・クァルテットにとっても思い入れの深い作品による演奏会でしょう。

最初のハイドンは、その第2楽章をサルビアでアンコールしてくれましたから、片鱗だけを聴いていました。この日はもちろん全曲。エリックが強調していたのは、作品の個性を大事にし、自分の個性で表現するということ。
ハイドンと言えば、同じような作風ばかりと批判する人もいますが、それはとんでもない間違い。ハイドンほど1曲1曲に異なる個性を持ち込んだ作曲家はいない、というのが私の意見です。

愛称ラルゴを例にとれば、古典派の作品では当たり前の様に使われる繰り返し記号が、この曲では第3楽章にしか出てこない。第1楽章は伝統的なソナタ形式に寄らず、シチリアーノ風3部形式というにはテンポの変化が普通じゃない。
有名な第2楽章は、♯が六つも付いた嬰へ長調というあり得ないような調性で大作曲家の心情が吐露されていく。定石通り繰り返しのある第3楽章も、トリオではチェロがゴリゴリと武骨に動き回り、長調と短調の交替が極端。
フィナーレもソナタ形式ながら無窮動風。ユニゾンで疾駆する場面がある一方で、突然のゲネラル・パウゼ。逆行型が飛び交ったり、sf による威嚇に突然の転調等々、聴く者はハイドンに翻弄されっ放しなのです。それでいて最後は爽快に締め括る、これを傑作と言わずに何と表現するのですか?

シューマンQはエリックが証言したように、作品の個性をキッチリ捉え、4人の表現力を最大限に発揮してハイドンの前衛精神を現代に甦らせてくれました。

続くアイヴス、これは面白かった。この作曲家をこんなに面白く聴けたのは恐らく初めての体験です。シューマンQはこの作品を優勝したボルドーのコンクールのためにミッチリと弾き込んだようですし、最新のCDにも録音したほど。“私たちの解釈は、この作品に対して間違っていない”と自信のあるコメントも出しています。
全体は3楽章、第1楽章は Discussions (討論)、第2楽章 Arguments (論争)、第3楽章には The Call of the Mountains (山々の呼び声)という表題が付けられています。討論と論争はどう違うのかとか、山々と複数形になっているのは何故かとか、色々に考えさせられる表題ではあります。

音楽は、今でも前衛で通る相当な強者。4つのパートが夫々勝手な主張を繰り返し、混乱の極みに達した所で意外な結末が待っているような印象を持ちました。アメリカ民謡(というか俗謡)、ヨーロッパを代表する名曲、讃美歌などが断片的に登場し、曲当てゲームみたいに感じられる個所もあります。
エッ、判らなかった、という時のために気付いたものを列記しておくと、
第1楽章では第60小節のヴィオラにアメリカ民謡「ディキシー」が ff で堂々と出てきます。他のパートが pp なのでここは目立ち、聴き損った人はいないでしょう。他には断片的に俗謡の「コロンビア、大洋の宝」というメロディーが見え隠れしましたね。曲名を見ても何のこっちゃと思われるかもしれませんが、軍楽隊(特に海軍)のパレードなどでは必ず登場するもので、そのものズバリを聴けば誰でも知っている如何にもアメリカを代表するアレですよ。

第2楽章は更にケッサクで、87小節からチェロが弾き出すのはチャイコフスキーの悲愴交響曲。第3楽章のマーチ風テーマの冒頭で、直ぐに第1と第2ヴァイオリンも繰り返します。全員が ff で弾き狂っていますから、判別は困難かも。
それに続いて直ぐ、92小節からファーストが高い音で奏するのが、ブラームスの第2交響曲から第1楽章。あの最初に一度しか出ない美しいメロディーが論争を牛耳るばかりに出てきます。これは比較的聴き取り易いんじゃないか。
もう一つ、96小節でセカンドが恥ずかしげもなくベートーヴェン第9の、「ミミファソソファミレドドレミ」とやりだすのには思わず吹き出してしまいました。論争を平和裏に収束させようという意味でしょうか。

第2楽章の最後も秀逸、アイヴスの前衛精神を最大限に発揮した箇所でしょう。ファーストとセカンドはガリガリッと雑音を発し、二人でチューニングを始めちゃう(as tuning up)。起こった4人が一斉にがなり立て(fff)、最後はノック・アウトして終わるのでした(as a K.O.)。
演奏の途中にチューニングやり直しを登場させる音楽、他にもあったよネ。そうそう、「うすのろ交響曲」、あれもハイドン先生だったっけ。やっぱり前衛作曲家アイヴスの手本は、前衛作曲家ハイドンだったんだぁ。

ところでこの引用、何の意味があるのでしょうか。思うに、出てくるのはアメリカのアイデンティティーを代表するようなアメリカ応援歌と、彼の国が寄って来たるヨーロッパの格式高いクラシック音楽の名曲。論争の根には、欧米間の政治的な意味合いも込められていたのじゃないでしょうか。
「コロンビア、大洋の宝」(Columbia, the Gem of the Ocean)と悲愴のテーマは、旋律は違えとリズムは双子の兄弟の様に全く同じなのが暗示的。アイヴスは恐らくそれに気付いていて、敢えてこの二つを登場させたのかも。もちろんコロンビアは第2楽章にも暗示的に使われていましたね。

第3楽章は讃美歌を歌いながら山に登る、という設定。ここにはあからさまな引用は無いようですが、ヴィオラが他のパートとは無関係に歌っていくのが讃美歌でしょうか。第123小節以下は、チェロが一歩一歩踏みしめるように全員の歩みをサポートして行くのが聴き取れます。最後は静寂の内に全曲を閉じるのでした。
シューマンQのこの日の演奏は圧巻。ここまで作品に食い込んだ団体がかつてあったのでしょうか。私はこの作品は余り聴いたことが無く、今回のためにスコアを取り寄せて予習したのですが、シューマンQを上回る様な音源には出会えませんでした。今回の彼等のCDこそ決定盤になるでしょう。

最後はベートーヴェンの最高峰。作品に付いては細々と書く必要もありませんが、彼等は今回のために態々メッセージを寄せ、“この曲を演奏するたびに、別世界にいるような、それでいて、人間の心の中心部にダイレクトに連れて行かれるかのような感覚を覚える”と書いていました。
演奏も正にそれを体験できる素晴らしいもの。この長大な作品が、少しも長くないワ、と思うほどに惹き込まれてしまいました。
思うに、弦楽四重奏ほど目で見て楽しめる音楽は無いでしょう。オペラなどは見なくとも良く、音だけで十分。クァルテットは、4人のアイ・コンタクト、体の寄せ方、目や口元の動きで音楽を表現を知ることが出来る。CDだけであれこれ言うのでなく、実際に会場に足を運んでなんぼ、という世界。今回もそれを実感したコンサートでした。

最後にエリックが挨拶。流暢な日本語で、“ベートーヴェンの後には、本当はアンコールはいらないんです。でも、今日は1曲用意しました。恐らくベートーヴェンも喜ぶモーツァルトを”、と言って鶴見でも全曲を演奏したプロシャ王第1から第2楽章。涙無しには聴けないアンダンテでした。
エリック、“このモーツァルトとアイヴスは新しいCDにも収録しました。レコード店に並ぶのは来年の1月か2月ですが、今日は特別に会場で販売してます。アイヴスは一度聴いただけでは理解できないと思いますから、CDで繰り返し聴いてください。”と、チャッカリ宣伝も。当然ながら、ロビーのサイン会にも長い列が出来ていました。

演奏会終了後の一コマ。
シューマンQにはドイツ語と英語の公式ホームページがありますが、今回の新作CDのプロモーション・ビデオが公開されており、4人のメッセージと録音風景を聴くことが出来ます。

ドイツ語に堪能でコアな聴き手氏がご親切にも翻訳してくれたところによると、シューマン3兄弟はもちろん、新たに加わったエストニアのヴィオリスト、リサ・ランダルもネイティヴかと思われるほどに見事なドイツ語を操るのだそうな。既に出来上がったクァルテットに新たに加わるに当たっては、織物に織り込まれる糸のような存在であることを心掛けている、とのこと。

前回の公演以後、彼等は大きく成長し、若いにも拘わらずモーツァルトを録音するような「リスク」も取れるほどに自信を深めている様子。名手との共演から学ぶことも多かったようで、名前を挙げていたのはボザール・トリオのピアニストだったメナハム・プレスラー氏と、やはり室内楽の重鎮ピアニストのアレキサンダー・ロンクィッヒ(だそうです、先生)でした。また書いちゃいますが、これからも聴き逃せない、いや見逃せないクァルテットです。

 

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