英国競馬1965(1)
今年は取っ掛かりが遅くなってしまいましたが、毎年恒例の競馬アニヴァーサリー・ネタを始めましょう。半世紀前の英国競馬をクラシック・レースを中心に回顧するシリーズです。当ブログの最大のテーマ。
1965年の英国クラシック展望に入る前に、この年起きた事象から現代に繋がる話題を二つ紹介しておきましょう。
その第一は、8月31日にノーフォーク委員会報告が最初のレポートを提出したことです。何のこっちゃ、と思われるかもしれませんが、それはこういうこと。
当時英国は所謂「英国病」がいよいよ深刻さを増し、英国の経済力が急激に低下していました。これが英国の通貨であるポンドの下落を招いたのは承知の通り。競馬界にも当然ながら影響が及びます。
競馬の国際交流は、この頃はイギリスとヨーロッパ大陸間が主でしたが、19世紀から継続していました。日本でもそうでしたが、当時のレースで出走馬が負担する重量は、各馬が稼いだ賞金を基に算出するのが決まり。通貨が安定しているときには問題がありませんが、1960年代に入ると英国の賞金価値がフランスに比して低下する事態になってきます。
つまり英国の馬がフランスのレースに出走する際は、ポンド安から負担重量は低く抑えられ、当然ながら競馬では優位に立ちます。フランス馬にとっては逆のことで、英国の重賞競走とフランスの条件戦が同じ価値で並んでしまう。
これでは公正な国際競争が成り立たなくなるわけで、競馬全体のシステムの見直しが求められるようになります。しかし競馬は生産界と密接な関わりがあり、改革案を作製したからと言って直ぐに次のシーズンから適用できるものではありません。各方面の意見を取り入れ、もちろん国際的に調整が必要で、生産世代が一巡する程度の期間を置く配慮も欠かせません。
こうして改革案を取りまとめるべく発足したのがノーフォーク卿を中心にしたノーフォーク・コミッティーで、ジャーナリズムを含めて競馬各界の英知が集められました。
結論から言えば、この改革案が現在のヨーロッパ競馬体系の根幹を成しているパターン・レースの考え方。レースそのものを格付けし、その賞金ではなく「格」によって馬の能力を図り、これを各レースでの負担重量に換算する。具体的に英国にパターン・レースが導入されたのは1970年で、その翌年からはパターン・レースを3つのグループに分ける、所謂G戦のレース体系がスタートすることになったのでした。
その最初の研究結果が公表されたのが1965年なのですね。
第二は、現在では世界中で行われているスターティング・ストールが、英国では初めてこの年に導入されたこと。日本では「ゲート」と呼んでいますが、イギリスではゲートとは以前の、ネット上の物を引き揚げて馬をスタートさせる方式。馬が並ぶのに手間が掛かりますし、とても公平な方式とは言えませんでした。
そこでアメリカでは一般的に使用されていた現在のストール方式が、この年初めて英国の競馬場に登場します。もちろんいきなり全レースに使用されるわけではなく、7月8日のニューマーケット、2歳戦のチェスターフィールド・ステークスが最初でした。これを試験的に使用し、これまた各所の意見を集約しましたが、何か新しいことを行えば反対が起きるのは世の常。スターティング・ストールも当初は安全性などを理由に猛反対が巻き起こります。
しかし現在見るように、この新しいスタート方式は次第に受け入れられ、今日見る姿が定着します。1965年は、その意味では競馬近代化元年でもありました。
さて前置きが長くなりましたが、最初は2000ギニーから振り返っていきましょう。
おっとその前にもう一つ、このシーズンだけの特徴的な事件を取り上げねばなりません。それは馬インフルエンザの猛威。確か日本にも入ったと記憶しますが、当時は防疫体制も現在とは比べ物にならず、馬の咳から次々と伝染、レース界のみならず生産界にも波及したインフルエンザは、結局春先から秋まで続き、様々な影響を及ぼします。馬券を買うファンも同じで、負けるはずの無い馬が惨敗し、レース後に感染が判明ということもしばしば起きたようです。
前年の2歳フリーハンデは、ミドル・パーク・ステークスを含めて4戦無敗のダブル・ジャンプ Double Jump が10ストーンでトップでしたが、ミドル・パークの直後に同馬は鼻出血を発症。その回復がクラシックへのキーポイントとされていました。
しかしダブル・ジャンプはその後の調教でも出血、3月26日には同馬の全ての登録が取り消され、結局早々と種牡馬入りが決まってしまいました。
2月にブックメーカーが発表した2000ギニーのオッズは、グラン・クリテリウムを制したフランスのグレー・ドーン Grey Dawn が4対1でトップ、以下アイルランドのアンセスター Ancestor 、ダンディーニ Dandini 、フル・ア・フル Hul A Hul の3頭が10対1で続き、英国勢ではスパニッシュ・エクスプレス Spanish Express (後に日本でアローエクスプレスを出す)がこれに次ぐという評価でした。
しかし最初に書いたように、インフルエンザの影響で各陣営の調教過程も狂わざるを得ず、例年以上に難解で焦点が定まらないクラシックとなっていきます。
前年まで英国の平場シーズンはリンカーン競馬場が幕開けでしたが、この競馬場は去年一杯で閉鎖され、この年からドンカスター競馬場が開幕の舞台となる筈でした。しかし予定された初日は大雪、結局ドンカスターもキャンセルされることになります。(ドンカスターで開幕というスタイルは現在でも続いています)
ギニーに向けて最初の情報が齎されたのはアイルランドからでしたが、それも勝馬が日替わりの様に変わる有様、中々有力馬が絞れない状況が続きます。
即ちレパーズタウンのニューキャッスル・ステークスは、ブックメーカーが挙げていたフル・ア・フルが3着に敗退してベルグレーヴ Belgrave が優勝。そのベルグレーヴもグラッドネス・ステークスではウエスタン・ウインド Western Wind の5着に敗れ、ギニーからは撤退を表明。
最初のオッズで本命に上がったグレー・ドーンも不参加を宣言する中、アスボイ・ステークスではレース経験が無く評判だけが先行していたダンディーニが初戦敗退。ここは伏兵のベダード Beddard が制しましたが、そのベダードも次走マドリッド・フリー・ハンデではヒズ・ブラザー His Brother の4着に終わるという具合。
漸くイギリスでもニューマーケットでクレイヴァン・ステークスが行われ、デビュー戦敗退も人気は維持していたダンディーニが出走してきましたが、勝ったのはコリファイ Corifi という馬で、ダンディーニは又しても3着に終わります。勝ったコリファイでしたが、この後インフルエンザに感染していることが判明し、結局ギニーに参戦することは叶いませんでした。
いつもはギニーに大きく影響するフリー・ハンデキャップも、勝ったのは英国のクラシック・レースには登録の無い牝馬のショート・コモンズ Short Commons で、本番の舞台となるニューマーケット競馬場のトライアルからも有力候補の出現は見られませんでした。
続いて行われたニューバリー競馬場のグリーナム・ステークス。ここで漸く2000ギニーにも光が見えてきます。11頭が出走し、内8頭がシーズン初戦というメンバー、何と言ってもスパニッシュ・エクスプレスと、デューハースト・ステークス勝馬でフリー・ハンデ7位(9ストーン5ポンド)のシリー・シーズン Silly Season の対決が見所でしたが、ここはシリー・シーズンが勝ってスパニッシュ・エクスプレスは2着。2頭は順調にクラシックへの試走を終えます。
更に各地のトライアルを見ていくと、サースク・クラシック・トライアルはホーンブラワー Hornblower が、ケンプトン・2000ギニー・トライアルは下馬評にも挙がっていなかったニクサー Niksar が優勝。中でもニクサーはパドックで発汗が酷かったにも拘らず2着以下に6馬身差を付ける圧勝で、この優勝で初めて10対1のオッズが出されました。
またエプサムのブルー・リバンド・トライアルはケンブリッジ Cambridge が勝ちましたが、これに伴い同厩で厩舎での評価は上のエンリーコ Enrico にも注目が集まることになり、この2頭もクラシックに駒を進めます。
この年、フランスからの挑戦は3頭。4月初旬にメゾン=ラフィットのトライアルに勝ったプレゼントⅡ世 Present Ⅱ、ロンシャンの前哨戦を制したトン・イェン Tong Yen 、グラン・クリテリウム3着のカプリコーンⅡ世 Capricorne Ⅱ。この3頭ではカプリコーンが最も高く評価されていました。
4月28日、ニューマーケット競馬場は数日前から雨が降り続き、当日も朝から雨。明らかに馬場は極端に重く、特に短距離血統で力が要る馬場には不向きと思われる馬の人気は下降していました。
インフルエンザの流行にも拘らず、出走してきたのは22頭。確たる本命馬が定まらない中、前走グリーナム勝ちのシリー・シーズンが13対2の1番人気。グラットネスを制したアイルランドのウエスタン・ウインドが9対1の2番人気に上がり、100対9で3歳戦は初出走となる評判馬のエンリーコが3番人気。この後は100対8でニクサー、ダンディーニ、スパニッシュ・エクスプレス、ケンブリッジが並んでいました。
パドックではニクサーが入れ込んで発汗も酷いものでしたが、ケンプトンではこの状態で圧勝しており、ファンとしては相手関係もあって取捨に迷う所だったでしょう。
レースは何時もの様に内と外、大きく二つのグループに分かれ、有利とされるスタンドから遠いグループはニクサーが先頭。また多くの馬が選んだスタンド側はケンブリッジ、ヒズ・ブラザー、バリメライス Ballymarais などが先団グループで、人気のシリー・シーズンもこの一団。内と外、乗っているジョッキーも見解が異なるほど微妙な駆け引きの中、スタンド側から抜け出したシリー・シーズンが、外に斜行しながら遠いグループを先導してきたニクサーに並び掛けます。
しかしこの斜行が距離をロス、ゴールではニクサーが本命馬を1馬身抑えてシーズン最初のクラシック馬となりました。更に1馬身差で重馬場にも拘わらず健闘した短距離系(父プリンスリー・ギフト Princely Gift)のフランス馬プレゼントが3着に入り、以下トライアルでは名前が挙がらなかったコロナド Coronado とアブスコンド Abscond が夫々4着、5着。人気所ではエンリーコ6着、スパニッシュ・エクスプレス9着、ウエスタン・ウインドが10着で、ダンディーニがブービー、ケンブリッジも最下位と期待を裏切っています。
4番人気で大一番を制したニクサーは、エプサムに拠点を置くウォルター・ナイチンゲール師が管理する栗毛馬。エプサムで調教された馬が2000ギニーを制したのは、これが20世紀では最初。というより、それ以前は調教師の本拠地に関する資料が存在せず、あるいは史上初の快挙だったかも知れません。
オーナーは出版業を営むウイリアム・ハーヴェイという方で、第2次世界大戦直後にはスター・キング Star King という快速馬を所有していた経歴があります。このスター・キングは豪州に転売され、スター・キングダムと改名されて生産界に多大な貢献をしますが、ハーヴェイ氏は本業に専念するため一旦は競馬界から身を引きます。しかし再びサラブレッドを所有するようになり、最初にフランスはドーヴィルのセールで購入したのがニクサーでした。
ということでニクサーは父ル・アール Le Haar 、母もフランスのローカル競馬でタフな成績を残したニスカンペ Niskampe というフランス産馬。生産者はマルキ・ド・ニコライ(ニコライ侯爵)で、マイラーというより典型的なフランスのステイヤー血統の持ち主です。
2歳時は3戦して未勝利、ニューバリーのクルックハム・ステークスで3着、この時にシリー・シーズンに首差先着して能力の片鱗を見せていました。そして4歳初戦が、トライアル展望で紹介したケンプトンでの初勝利。本番はそれに続く連勝で、ダンカン・キースが騎乗していました。オーナーにとってもジョッキーにとっても、ニクサーの2000ギニーは唯一のクラシックとなりますが、ナイチンゲール師は戦中、1943年のストレート・ディール Straight Deal のダービーに次ぐ2度目で最後のクラシック制覇となりました。
因みにハーヴェイ氏はその後本業が巧く行かず、競馬の世界からは姿を消すことになります。
2000ギニーを制した直後、血統が長距離系と言うこともあってニクサーはダービーの本命にリスト・アップされますが、直ぐにその座は他の候補馬たちに取って代わられます。
実際、ダービーは4着、愛ダービーは9着、キング・ジョージも4着でしたが完敗。1マイルに戻ったサセックス・ステークスも9着と奮わず、シーズン最後に漸くチャンピオン・ステークスで、ライヴァルだったシリー・シーズンの3着を最後にして種牡馬としてシンジケートが組まれ、古馬としてのキャリアを積むことなく、1965年の末にはオーストラリアに輸出されてしまいました。
ニクサーとシリー・シーズン、2頭のライヴァルは3歳シーズンに4回対決しましたが、2000ギニーとダービーではニクサーが、サセックス・ステークスとチャンピオン・ステークスではシリー・シーズンが先着。タイムフォームが2頭に与えた評価は、シリー・シーズンの127に対し、ニクサーは123、最後のチャンピオン・ステークスの差が4ポンドとして示されています。
オーストラリアで種牡馬となったニクサーは、タスマニア・ダービー馬サブロー Sabreur などを出した他は成功せず、1973年には日本に再輸出されたのはご存知の通り。10歳という比較的若い年齢で供用されたものの、日本での産駒も中央競馬では特別競走2勝のヒノレインボーとスズフィーバーがあるのみ。残念ながら完全な失敗に終わったギニー馬と評価せざるを得ないようです。
最近のコメント