英国競馬1965(2)
牡馬のギニーに続き、翌日に行われた1000ギニーを回顧して行きましょう。
牝馬の部門でフリー・ハンデキャップのトップに評価されたのは、9ストーン5ポンドで全体では第10位のナイト・オフ Night Off でした。前年のチーヴリー・パーク・スークスの勝馬ですが、20対1という人気薄での勝利でした。続いては2ポンド下、9ストーン3ポンドでネヴァー・ア・フェアー Never a Fear の順。
牡馬戦線同様インフルエンザの影響で中々人気馬が絞れない中、冬場の1番人気に挙げられていたのは、1番人気に支持されたチーヴリー・パークで伏兵ナイト・オフに惜敗していたフォール・イン・ラブ Fall in Love 。このあとフランスに戻ってサン=クルーの1600メートル戦に楽勝し、ギニーと同じ距離ならこちらが上と言う期待感が持たれていました。
しかしフォール・イン・ラヴはシーズン・デビューのアンプルーダンス賞で2着に敗退。レース中に怪我をするアクシデントもあって4月19日に1000ギニー撤退が発表され、結局同馬はその後レースに出走することはありませんでした。
またフリー・ハンデ牝馬部門トップのナイト・オフ、シーズン前は6対1の2番人気に支持されていましたが、厩舎では最も早くインフルエンザを発症。ニューマーケットのクレイヴァン開催が始まる前にはブックメーカーのリストから外れてしまいます。
そのクレイヴァン開催で行われたネル・グィン・ステークスは有力馬が集まらず、勝ったジェントリー Gently 以下クラシックには縁の無いトライアルとなってしまいました。
漸くトライアルらしい前哨戦になったのはニューバリー競馬場のフレッド・ダーリング・ステークスで、2歳時2戦無敗のアティテュード Attitude が1番人気。しかし優勝は逃げて差し返したナイト・アピール Night Appeal で、アティテュードは頭差の2着。アティテュードは敗れはしたものの勝馬より5ポンド重い負担重量を背負っており、この結果でもギニーのオッズは10対1と、この時点ではフォール・イン・ラヴの2番人気は変わっていません。勝ったナイト・アピールは12対1の評価。
4月も中旬入るとナイト・オフがインフルエンザから回復、1000ギニーへの直行が言明され、再び10対1のオッズが提示されます。更にフレット・ダーリングの翌日、アイルランドでローズ・ドール Rose d’Or がシーズン初戦を10馬身で圧勝、ギニー挑戦が報じられます。彼女も12対1にリストアップ。
その二日後にサン=クルーで1300メートルの前哨戦を快勝したヤミ Yami も渡英を決意、彼女も12対1と徐々に役者が揃ってきました。
こうした中で、上述の様に本命フォール・イン・ラヴが戦線離脱。翌日にはアティテュード、ナイト・アピール、ナイト・オフの3頭が5対1で並ぶ混戦状態になります。
フォール・イン・ラヴを管理するフェローズ師は、替ってノンシャランス Nonchalance の参戦を表明しますが、この馬にはクラシックで人気するほどの実績はありません。
1964年にオークスの1・2着馬を輩出したエプサムのプリンセス・エリザベス・ステークスでしたが、この年の勝馬ミバ Miba には余り高い評価は与えられていません。ミバと、ここでは着外だったクィタⅡ世 Quita Ⅱ が1000ギニーに参戦。
しかしこのエプサム開催の最中にフランスからの一報で急速に注目されたのが、グロット賞で2着したビート・イット Beat It 。2着ながら勝ったクリアー・リヴァー Clear River は前走アンプルーダンス賞でフォール・イン・ラヴを破った馬、冬場の本命馬を物差しとした評価で突然人気上位に上がってきた辺り、この年の牝馬クラシックの混戦を表しているようではありませんか。
この結果、フランスからの1000ギニー挑戦はヤミ、ノンシャランス、ビート・イットの3頭となりました。またアイルランドからはローズ・ドールに加え、アメリカ産馬でトライアルのマドリッド・フリー・ハンデキャップでは人気になりながら出遅れて5着に終わったロング・ルック Long Look も参戦します。
また英国組では更に5頭、特にトライアルを使わずに直行するマーベル Mabel 、ローズ・オブ・ムーンコイン Rose of Mooncoin 、ラビーズ・プリンセス Ruby’s Princess が加わった計16頭がスタート・ラインに並びました。
2000ギニーでも紹介したように、この年のニューマーケット・ギニー開催は連日の雨。しかも2000ギニーが終わった30分後には落雷もあるなど、4月29日の馬場は更に悪化してミゼラブルな馬場状態で行われました。
パドックで目立ったのは病み上がりのナイト・オフで、最終的には彼女が9対2で1番人気。初めて英国のファンの前に姿を現した噂のビート・イットは、如何にも貧相な馬体で馬場への適応力に不安がもたれたものの、それでも5対1で2番人気。15対2のローズ・ドールが3番人気で続き、ヤミ(9対1)、アティテュード(10対1)の順。明らかに短距離血統のアティテュードには不利な馬場状態ということで、オッズは下がっていました。
例によってスタートすると馬群は大きく内外に分かれ、2000ギニーでは有利だったスタンドから遠いコースはニクサーと同じ馬主のクィタが先頭。馬場の中央をラビーズ・プリンセスが通り、馬場状態がいくらか良いと思われるスタンド側はナイト・アピール、ミバ、ロング・ルックが前で競馬し、本命ナイト・オフもスターンド側を差無く先行します。
藪の辺りでナイト・アピールが急速に後退(結局は最下位入線)すると、スタンド側のミバ、中央のラビーズ・プリンセスが優位で、遠い側はやや遅れ気味。
坂の下りでナイト・オフが一気にスパートして先頭に立ち、そのまま楽勝かと思われましたが、最後の坂でジャン・クロード・デサン騎乗のヤミが徐々に差を詰めます。しかし最後はナイト・オフの粘りが勝り、何とか首差でヤミを斥けての戴冠。3馬身差が開いた3着にもスタンド側のマーベルが入り、ロング・ルック4着、ローズ・オブ・ムーンコインが5着。2番人気のビート・イットは見せ場無く15着、ローズ・ドールも11着と惨敗し、アティテュードは何とか8着という結果に終わりました。
一時は出走さえ危ぶまれたナイト・オフは、開業2年目のウォルター・ファートン Walter Wharton の手腕で見事に回復。ファートン氏は馬主のプライヴェートな調教師で、これが唯一のクラシック制覇となります。また騎乗したウイリアム・ウイリアムソンはオーストラリアで活躍していた世界的ジョッキーで、英国に来たのは1960年のこと。英クラシックは1962年のアバーメイド Abermaid (これも1000ギニー)に次ぐ2勝目で、結果最後のクラシックとなります。
ナイト・オフのオーナーは、伝統的なヨークシャー州家系のライオネル・ホリデー少佐。繊維を染めるアニリン染料で財を成した人物で、意地が悪く皮肉屋、親しい友人はほとんどいませんでした。馬を見る目に長け、馬産だけでなくドッグ・レースにも幅広い知識を持っていましたが、ジョッキー・クラブのメンバーに選出されたのも80歳を過ぎてからです。
少佐のクラシック制覇は1951年のオークス(ニーシャム・ベル Neasham Belle)、1962年のセント・レジャー(ヘザーセット Hethersett)に次いで3勝目。ナイト・オフで1000ギニーに勝ったその年の暮れ、夫人の死去から僅か数日後の12月17日に85歳で生涯を終えています。幸せな人生だったのでしょうか?
ナイト・オフはインフルエンザから回復したばかりでの激走が響いたのか、オークスのトライアルとなるミュジドラ・ステークスは5着に凡走してオークスは断念。その後アスコットでコロネーション・ステークスで2着になったものの、最後の3戦は何れも敗退してシーズンを終えます。
そのまま繁殖入りしますが、オーナーが亡くなったこともあり、繁殖牝馬としても成功からは遠い生涯を終えたようです。
最後にホリデー少佐の息が掛かった馬で日本にも関係が深いのは、ヘザーセットの半弟に当たるネヴァー・ビート Never Beat でしょう。名馬の兄弟と言うことで期待はされましたが、競馬場では目立った戦績の無いまま日本で種牡馬。
しかし我が国の水が合ったのか、本来の能力が目覚めたのか、皐月賞馬マーチス、オークス馬ルビナス、桜花賞馬インターグロリアを含め産駒は大活躍。毎年のリーディング争いで常に上位を争っていたのはご存知の通り。ナイト・オフの1000ギニーから半世紀となる今年、改めてホリデー少佐の馬たちを偲ぶのも、競馬ファンの心意気というものじゃないでしょうか。
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