英国競馬1965(5)
半世紀前の英国クラシック・レース、最後はセントレジャーです。現在でもそうですが、もうこの時代には既にセントレジャーの人気は凋落の一途で、セントレジャーに勝つことは却って将来の種馬としての価値が落ちると嫌われてきていました。
ダービーを圧勝したシー・バード Sea Bird は最初からセントレジャーは歯牙にもかけず目標は凱旋門賞。その結果についてはダービー回顧で紹介しました。
この年のセントレジャーは190回目。ダービーが終わった時点で中心視されたのは2着のメドウ・コート Meadow Court で、アイルランド・ダービー、古馬を一蹴してのキング・ジョージと連勝、この年の3歳馬のレヴェルを見せ付けるパフォーマンスでセントレジャーの本命馬の地位を確固たるものにしています。
メドウ・コートにとって秋の目標は、セントレジャーから凱旋門賞。伝統的なレジャー・トライアルは使わず、キングジョージの後は短い休養を取ってセントレジャー本番を目指します。ブックメーカーが最初に出したレジャーのオッズは、5対2。
最後のクラシックに向けて最初のトライアルとなるのが、グッドウッドのゴードン・ステークス。ダービー組からは3着のアイ・セイ I Say 、7着のバリメライス Ballymarais 、15着のキング・ログ King Log 、ブービー21着のアズ・ビフォア As Before が参戦し、メンバー上は絶好のトライアルになるかと見えました。
しかしレースは極めてラフな展開となり、アイ・セイは内ラチにぶつかるアクシデントなどもあって前から大きく置かれた最下位に敗退。その前のキングジョージでも9着と凡走していたアイ・セイはセントレジャー登録を取り消し、このシーズンはこれが最後のレースとなってしまいます。
勝ったのはこの時点でも未勝利だったキング・ログ。未勝利の特典?でもある10ポンドのハンデを貰い、バリメライスに3馬身差を付けていました。
一方ダービー5着、続くロイヤル・アスコットでキング・エドワード7世ステークスを制し、愛ダービーでもメドウ・コートの2着に健闘したコンヴァモア Convamore もゴードン出走を考慮していましたが、グッドウッド最終日に組まれている、より賞金の高いニュース・オブ・ザ・ワールド・ステークスを選択。9ストーン7ポンドという重い重量、生憎の前夜の雨による重馬場もあり、コンヴァモアは軽量(7ストーン9ポンド)馬スーパー・サム Super Sam の3着に敗れました。
尤もこのスーパー・サム、この後も成長を続け、フランスのシャンティー賞を含めて5連勝するほどの逸材だったのです。重いハンデと不良馬場でも3着を確保したコンヴァモアは、ここからセントレジャーを目指します。
次なるトライアルは、レジャーを占うには最も適しているヨーク競馬場のグレート・ヴォルティジュール・ステークス。例年ここから好走する馬が必ず出て来るものですが、今年はそうなりません。
この時点でも本命のメドウ・コートを管理するパトリック・ブレンダーガスト師は、厩舎では遥かに格下のラガッツォ Ragazzo を出走させます。ゴードン・ステークスの上位3頭も顔を揃えましたが、結果はラガッツォの2馬身勝ち。2着バリメライス、3着クレイグハウス Craighouse (この時点で2戦2勝、このあと愛セントレジャーに優勝)、4着ソルスティス Solstice (ダービー9着以来の出走)の英国勢は顔色無し。アズ・ビフォアとゴードン勝馬キング・ログも大敗を喫し、この結果を見た英国の競馬ファンは一気にセントレジャーへの興味を失ってしまったようです。何しろアイルランドの二流馬でも英国のクラシック候補を問題にしなかったのですからね。
しかし何とか英国競馬界の期待を繋いだのが、翌日に行われたメルローズ・ハンデ(1マイル6ハロン)に勝ったプロヴォーク Provoke 。前日3着のクレイグハウスと同厩の馬で、2着とは頭差でしたが、2着は12ポンドも負担重量が軽く、3着以下とは6馬身差が開いていました。管理するリチャード・ハーン師は、セントレジャーにはクレイグハウスではなく、プロヴォークで挑戦することを決定します。
他に主な英国馬では、ダービー6着のケンブリッジ Canbridge がダービーから直行。アイルランドからはメドウ・コートとそのペースメーカーを務めるノーブル・レコード Noble Record 、本番11日前にカラーのブランドフォード・ステークスに勝ったドナート Donato を含めて4頭が参戦、フランスからは1頭も挑戦が無く、11頭で争われることになりました。
セントレジャー当日の9月8日は、朝から降り出した雨が終日強く、馬場は極端に重い惨めな状態にまで悪化していました。当然ながら本命はメドウ・コートで、1935年のバーラム Bahram 以降では最も低い配当となる11対4の圧倒的1番人気。100対6の2番人気にはソルスティス、コンヴァモア、ドナートの3頭が並び、ケンブリッジは18対1、バリメライスは20対1で続きます。
レースは本命馬のペースメーカーを務めるノーブル・レコードが引っ張り、スタミナの限界を試す作戦。アズ・ビフォア、プロヴォーク、ソルスティスがこれに続き、レスター・ピゴットが騎乗するメドウ・コートは後方に待機し、バリメライスが最後方。
ノーブル・レコードが3馬身差で逃げながら直線に入ると、先ずアズ・ビフォアが逃げ馬を捉えます。続いて直後に付けていたソルスティスが前に出、5番手にまで押し上げて直線に向いたメドウ・コートをプロヴォークがマークし、バリメライスは未だ後方。
ゴール前3ハロン、一気にプロヴォークがスパートし、メドウ・コートがこれを追って交わすかに見えましたが、プロヴォークの末脚は衰えることなく、最後はメドウ・コートを引き離す一方。大きく開いたゴール、審判は着差を10馬身と判定しました。2着メドウ・コートと3着ソルスティスとの間は5馬身、その後4着に追い込んだバリメライスとも5馬身差が付き、アズ・ビフォアが5着と言う結果になりました。
勝ったプロヴォークのオッズは28対1、7番人気での勝利となります。1922年にロイヤル・ランサー Royal Lancer が33対1で勝って以降では最も高配当。
また勝時計3分18秒6は、何と1897年にガルテー・モア Galtee More が出した3分31秒2に次ぐという遅いもの。ガルテー・モアの時代とはレースの流れが全く異なりますから、如何に1965年のセントレジャーの馬場が重かったかということ。この馬場こそがプロヴォークの勝因であり、メドウ・コートの敗因でもありましょう。
プロヴォークはアスター・スタッドの生産馬で、ジョン・ジェイコブ・アスター氏の所有馬。これでこの年のクラシックは、2000ギニーのニクサーを除いて全てがオーナー・ブリーダーの馬ということになりました。
アスター氏はニュー・ヨークの大富豪を祖先に持つ競馬ファミリーの出で、父は英国のクラシックに11勝もした大オーナー。ジョン・ジェイコブはその4男で、クラシックはこれが唯一の勝鞍。兄のウイリアム・ウォルドルフも1953年にアンビグィティー Ambiguity でオークスを制していました。
調教師のリチャード・ハーンも英国を代表する名調教師で、この時点でクラシックは2勝目。1962年のセントレジャーをヘザーセット Hethersett で制したのがクラシック初勝利(3年前の日記参照)で、それは皮肉にもこの年の1000ギニー馬ナイト・オフ Night Off のオーナー、ライオネル・ホリデー氏の所有馬でした。
ハーン師は1970年代にブレイク、ブリガディア・ジェラード Brigadier Gereard 、女王陛下のハイクレア Highclere とダンファームリン Dunfermeline でもクラシックを制するなど、英国競馬界には欠かせない存在となっていきます。
プロヴォークは所謂奥手のタイプで、2歳馬としてはシーズン末の10月末に一走して着外したのみ。3歳シーズンも5月にヨークの9ハロン戦で4着したのが初戦で、ニューバリーでの2戦目、1マイル半で2着。
6月にニューバリーの1マイル5ハロンでで初勝利を挙げると、アスコットの1マイル半も連勝。そして上記メルローズ・ハンデを制してセントレジャー候補に名乗りを上げてきました。
結局このシーズンは4連勝でクラシック馬となり、シーズンを終えます。当初は4歳も現役に留まってゴールド・カップなど長距離戦を使う予定でしたが、残念ながら1966年にハーン厩舎ではインフルエンザが蔓延、結局古馬としての戦績の無いまま引退し、種牡馬としてロシアに輸出されます。
そこでもプロヴォークは不運に見舞われ、ロシアの土を踏んで間もなく死去。1965年の最後の重馬場クラシックを大穴で制した馬という記録だけが残ることになりました。
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