英国競馬1965(4)

前回に続いてエプサムのクラシック、1965年のオークス回顧に行きましょう。

シーズンが開幕する前の1番人気は調教師のミスで1000ギニー登録を忘れたブラッシア Brassia の8対1でしたが、結局この馬は1マイル以上の競馬を使われることはありませんでした。
そしてシーズンが始まって直ぐに話題を集めたのが、珍しくもイタリアのタドリナ Tadolina 。高名なテシオが設立したドルメロ=オルジアータの生産・所有馬で、イタリア1000ギニーに相当するレジーナ・エレナ賞を4馬身差で圧勝、オークスへのオッズ8対1が出されてこの時点での本命に上がってきます。続いて出走したイタリア2000ギニーは2着だったものの、1000ギニーが終わった日曜日に行われたイタリア・オークスを10馬身差で圧勝し、オッズは更に4対1に上がって加熱気味。1000ギニーを制したナイト・オフ Night Off と、同じオーナーのネヴァー・ア・フェアー Never A Fear が12対1で続きます。
そして5月14日、タドリナがインフルエンザに感染してエプサム遠征が不可能という知らせが入ると、直ちにナイト・オフが4対1の本命へと復帰してきました。

ここからが本格的なオークス・トライアルです。ヨーク競馬場のダンテ開催で行われるミュジドラ・ステークスに出走したナイト・オフでしたが、オークスの1番人気は何と5頭立てのシンガリ負け。されもほとんど競馬にならない敗退で薬物犯罪も噂されたほどでしたが、真相はインフルエンザ明けの1000ギニーでの激走が影を落としたのでは、というもの。結局ナイト・オフはオークスを回避することになります。
ミュジドラ・ステークスに勝ったのは、前走カラーのアサシ・ステークスで冬場の人気ブラッシアを5馬身千切ったアークティック・メロディー Arctic Melody 。残念ながらアークティック・メロディーにはクラシック登録が無く、このトライアルがオークスに影響したのはナイト・オフの脱落だけでした。この結果を受け、ナイト・オフと同じホリデー氏のネヴァー・ア・フェアーが単独で1番人気となります。

更に1000ギニー組では、2着のヤミ Yami はエプサム遠征の意思はなく、上位3頭からは3着のマーベル Mabel だけがエプサムに向かいます。マーベルはウインザーの小レースで長距離を試し、弱敵相手の楽勝でトライアルを終了。
また4着のロング・ルック Long Look 、最下位だったナイト・アピール Night Appeal がトライアルを使わずにオークスに直行。6着のミバ Miba はニューマーケットで1マイル4分の1のプリティー・ポリー・ステークスを快勝し、万全の試走でオークスへ。またここで負けた中からもマシェラ Machella とヒラリー・ターム Hilary Term もエプサムに挑戦することになります。

さてこの時点で本命だったネヴァー・ア・フェアーは、2歳時にロイヤル・ロッジ・ステークスで鋭く追い込んで2着した実績が評価された馬。リングフィールド競馬場のオークス・トライアルがシーズン初戦で、ここが試金石となります。しかし結果は1000ギニー7着馬クィタⅡ世 Quita Ⅱ に2馬身差の2着。レースも直線で大きく外に膨れる内容で、これを評価できる半面、明らかにエプサムでは不安が伴うでしょう。
この結果でオークスのオッズはマーベルが7対1の本命、ネヴァー・ア・フェアーとロング・ルックが8対1に並び、クィタが10対1に上がってきました。

こうして最終的には18頭がオークスに出走しますが、アイルランドからはロング・ルックの他に愛1000ギニーでは着外だったフィーヴァル Feeval の2頭。フランスからは記録上(調教の本拠地がフランスというのみの理由)クィーン・アンズ・レース Queen Anne’s Lace 1頭のみというメンバーになりました。クィーンズ・アンズ・レースは今期、仏オークスのトライアルとなるクレオパトラ賞5着のみという成績。
ダービー当日に太陽が顔を出したエプサム・ダウンズ、好天は6月4日のオークスまで続き、馬場は firm にまで乾いていました。固い馬場はマーベルには不利で、結局85対40で1番人気に支持されたのはネヴァー・ア・フェアー。それでもマーベルは13対2の2番人気を保ち、未勝利馬ながら一流の血統とエリザベス女王の持ち馬と言うことでクレデンス Credence が10対1の3番人気。以下ミバの100対9、ベル・トップ Bell Top 100対8、ロング・ルックとクィタが100対7で続きました。
イギリスには「1000ギニー4着馬がオークスを制する」という格言(のようなもの)がありますが、1000ギニー4着だったロング・ルックは“ひょろ長いタイプ”として嫌われたようです。加えてロング・ルックはダブリン空港で技術者のストライキがあって飛行機が飛ばず、何とかイギリスから特別機をチャーターして間に合うというアクシデントもあり、調教師など関係者にとってもギリギリ間に合ったオークスでした。

スタートが切られると、先ずは伏兵のフロスティー・ローズ Frosty Rose とマシェラが先頭に立ち、ラビーズ・プリンセス Ruby’s Princess とコートセイ Courtsay がその後、ネヴァー・ア・フェアは終始最後方からの競馬となります。
丘の下りでマーベルが急速に順位を落としましたが、これは明らかに不得手の良馬場(固い馬場)故。彼女が盛り返すのは直線に入ってから、結果は2着にまで追い込みましたから、マーベルにとっては馬場が全てだったでしょう。
タテナム・コーナーはマシェラとラビーズ・プリンセスが先頭で入り、3番手にクレデンス、ロング・ルックはそのあと。ネヴァー・ア・フェアーも巧くコーナーを克服しましたが、既にかなり後方に置かれており、直線では早くも圏外に落ちていたのは明らかでした。

ラビーズ・プリンセスが先頭に立った所にミバが襲い掛かりましたが、ロング・ルックが外に出してスパート。ここでスタンドが沸いたのは、一旦下げたマーベルがロング・ルックを交わす勢いで伸びてきたため。しかし2頭の差は逆転には大き過ぎ、結局は1馬身半差でロング・ルックが優勝。惜敗2着のマーベルと3着に粘ったラビーズ・プリンセスとの着差は4分の3馬身でした。以下クィーン・アンズ・レースが4着、5着にヒラリー・ターム。人気のネヴァー・ア・フェアーは10着に終わり、クレデンスは8着、ミバも6着まで。
馬場が硬かったにも拘わらず、勝時計はダービーのシー・バードより1秒も遅いもの。勝馬のオーナー、ジェームス・コックス・ブラディー氏はニューヨーク州の競馬会議長で、翌日にベルモント・ステークスを控えていたため渡英できず、ロング・ルックは同馬を管理するヴィンセント・オブライエン師が手綱を取ってウイナーズ・サークルに登場しています。

ヴィンセント・オブライエン師は戦後直ぐに調教師としてスタートしましたが、当初は障害馬のトレーナーでした。グラント・ナショナルに3度も勝ったほどでしたが、やがて平場に転向。英国のクラシックは1957年にバリモス Ballymoss でセントレジャー、1962年にラークスパー Larkspur でダービーに勝っており、これが3勝目で牝馬のクラシックは初制覇。
オブライエン師が英国の大レースを席巻するのは1970年代に入ってからで、この時点では48歳、これから活躍が期待できる調教師の一人という立場だったでしょう。因みに現在のアイルランドを代表するエイダン・オブライエンは、姓は同じでも血縁関係は一切ありません。
全盛期のオブライエン厩舎はアメリカ産馬、レスター・ピゴットの騎乗で世界を征服しますが、1965年のオークスでロング・ルックに騎乗したのは、1950年代にオーストラリアで活躍していたジャック・パーテルというジョッキー、もちろんこれが最初で最後の英国クラシック優勝でした。

ロング・ルックは、既に紹介したようにブラディー氏が生産してオーナーでもあるアメリカ産馬で、彼の地で供用されているリボー Ribot の娘。2歳時は2戦してレパーズタウンで1勝。1965年はマドリッド・フリー・ハンデ5着から1000ギニーに挑戦しての4着。ジンクス通りエプサムでクラシック制覇を成し遂げました。
オークスのあとは、1番人気に支持された愛オークスが同厩のオーラベラ Aurabella に半馬身負けて2着。そのあともブランドフォード・ステークスが5着、ヴェルメイユ賞3着と勝ち星が無く、アメリカで繁殖牝馬として引退します。

繁殖牝馬としてはGⅡ・GⅢクラスに勝ったノース・ブロードウェイ North Braodway という娘を出しましたが、GⅠ級の馬は22世紀に入ってコンガレー Congaree まで待つことになります。

 

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