日本フィル・第670回東京定期演奏会
5月に日本フィルを聴くのは昨日のサントリーが初めて。実は9日に横浜定期があったのですが、あの日はクァルテット・エクセルシオのラボがあり、そちらを優先した次第。時間的に梯子は無理ではありませんでしたが、時計を気にするのは性分に合わず、迷った末に横浜定期は知人に譲ることにしました。
ところが横浜定期(阪哲朗指揮のシューマンとブラームス)を聴いた知人、“残念なことをしましたね、実に素晴らしい演奏会でしたよ”とメールを送ってきました。普段は必要な事しか書かない彼ですが、演奏の細部まで細々と描写。何かの機会に当ブログでも紹介したい位の批評文を認めています。
ということで残念な思いをした横浜でしたが、恐らく昨日の東京も負けず劣らず充実したプログラムを並べた日フィル。5月の指揮者はプログラムに拘る個性的指揮者の代表格たる下野竜也、前回に続いてオール日本フィル・シリーズという聴き逃せない一夜でした。
黛敏郎/フォノロジー・サンフォニック-交響的韻律学-
林光/Winds(日本フィル・シリーズ第24作)
三善晃/霧の果実(日本フィル・シリーズ第35作)
~休憩~
矢代秋雄/交響曲(日本フィル・シリーズ第1作)
指揮/下野竜也
コンサートマスター/西本幸弘(ゲスト、仙台フィルのコンサートマスター)
フォアシュピーラー/千葉清加
ソロ・チェロ/菊地知也
前回(2012年7月、第642回定期)の演奏の一部はCD化されていもいる名演奏でしたが、今回はその続編と言うか第2弾。下野は来年の日フィル九州公演の指揮者にも選ばれましたから、この企画を今後も続け、出来れば下野/日フィル・シリーズ全集でも完成させて欲しいもの。無茶な要望は置いといて、昨日のレポートです。
今回も4作品が取り上げられました。冒頭の黛作品はシリーズには無いものですが、企画のスタートに先立って日本フィルが委嘱した作品。同オケの第2回定期で渡邉暁雄の指揮で初演された黛の意欲作です。
言わばシリーズ「第0作」は、作曲者が留学していたパリで影響を受けたと思われるヴァレーズを連想させるような響きが続出する12分ほどの作品。日本の梵鐘に含まれる音程関係を分析し、西洋楽器に擬えたのが「交響的韻律学」で、「楽」ではなく「学」というところがミソでしょうか。下野のダイナミックな棒で作品に新鮮な風が吹いたと思います。
続いては林光による第24作。プログラム・ノート(片山杜秀氏、現代日本音楽に付いてはスペシャリスト)によれば、日フィルがあの苦難の時代を何とか乗り越えてシリーズを再開した時の第1作に当たる由。当時私は東京を離れていたので実際に聴いたのは初めてでしたが、作曲家が異なるとは言いながら、やはり「時代」が変わったということを如実に体験させてくれる1曲と聴きました。
学生運動、労働争議などは私自身も苦々しく体験した事件で、この作品には時代に翻弄される「風」が表現されているのでしょう。木管楽器、即ち「Winds」が主導権を握る音楽に、金管が日本の伝統音階で立ちはだかる。対立の中からでも明るい風が生まれ、最後は冒頭のピッコロが当時を回顧するように終わる、という10分ほどの作品。
初演はやはり渡邉暁雄氏、当時は客演指揮者と言う立場でしたが、変貌した古巣オーケストラを懐かしい上野文化会館で振った回でした。
3作目の三善作品は、私もサントリーホールで初演に立ち会いました。当時日フィルの正指揮者だった広上淳一の指揮、マーラー「復活」の前半に初演されたことを良く覚えています。
この時代は騒乱も静まってはいましたが、黛作品や最後に演奏される矢代作品当時の沸き立つ様なエネルギーとは別の、ある意味で成熟した日本の姿を連想させる作品、として聴いたものでした。
全体は三善独特の音程関係から構成されていて、中間部の阿鼻叫喚の地獄絵図が描かれる場面でも、何処か艶めかしい、湿度の高い響きに聴こえてくるのが三善晃の三善たる所以なのでしょう。これも再演として蘇らせてくれた下野竜也に感謝。
最後は日本の古典作品となった矢代の交響曲。記念すべきシリーズ第1作で、もちろん渡邉暁雄・首席指揮者によって1958年に初演されました。
私はもちろん初演には立ち会えませんでしたが、その再演となった1965年3月に上野の文化会館で聴き、大変に感動したことを覚えています。私が初めてオーケストラの定期会員になったのが1965年2月の日フィルからで、これはその2回目(当時日フィルは月2回定期体制でしたから、実際に聴いたのは3回目)。プログラム前半にタッキーノのソロでベートーヴェンの第3協奏曲が演奏されたことも記憶しています。
この演奏会の前、銀座のヤマハで矢代作のスコアを購入、文化会館の5階でスコアと首っ引きで鑑賞したものです。そのスコアはもちろん今も愛用していますが、昨夜演奏後に下野氏が高く掲げていた現行版より前の初版、値段は850円でも今や骨董品かも知れません。
初体験以来何度も聴いてきた矢代の代表作、やはりこれは日本の産んだ世界の財産だと、改めて思います。日本フィルハーモニー交響楽団という存在があったからこそ、そして現在まで演奏活動が綿々と続いているからこそ生き残っている人類の遺産なのです。
あのリズム、「てんやてんや、てんてんや、てんや」にしても下野の棒は明快そのもの。その創り出す見事なバランスによって、これが日本の現代音楽という特殊なジャンルを遥かに超える名演へと昇華していました。
今回の4曲も、もちろん作曲家の個性の違いを超え、書かれた時代の空気が如実に作品に反映されていると感じました。時代の積み重ねと、夫々を生きた人たちの記憶。とかく難解として敬遠される同時代の音楽ですが、演奏家にはこれらを繰り返し取り上げる責務があると思います。
コンサートに通う我々とて同じこと。初演の時には難解に思えた作品も、時間を経て聴いてみれば懐かしささえ感じられるもの。初体験されるファンも、却って新鮮に響くのではないでしょうか。
演奏が終わるたびにスコアを掲げて作品を讃える下野。指揮台の横に特別なスペースを置き、演奏を終えた一冊づつを丁寧に収納して行く姿勢にも、彼の偉大な先人たちへの敬意と愛情が伝わってくるコンサートでした。
かつてマエストロ・サロンで、日フィルの九州公演を貪るように聴いて指揮者になる決意を固めたと語っていたマエストロ、来年の九州公演、特に2月16日に予定されている鹿児島公演は、東京から駆け付けてでも聴く価値がありそう。
続け、下野/日本フィルの日本フィル・シリーズ再演企画!
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