ジョージ・ムーアの死

イギリスの平場競走、冬場はお休み。それでも英国電子競馬新聞は毎朝、見出しだけはチェックしています。今朝飛び込んできたのが日記のタイトル。

George Moore といっても、最近の競馬ファンは間違いなく知らないでしょうね。私が競馬に関心を持ち始めたのは1960年代の終わり頃。そのとき既に、ジョージ・ムーアは伝説の名ジョッキーでした。
ムーアはオーストラリアの騎手。1950年代から60年代にかけ、シドニーで10回チャンピオン・ジョッキーに輝き、オーストラリアのGⅠ競走には119勝もしているのだそうです。この記録は未だ破られていない由。現地では“コットン・フィンガーズ Cotton Fingers ”のニックネームで親しまれていたそうですね。今朝の訃報記事で初めて知りました。

私がムーアの名前を知ったのは1967年、この年のダービーをロイヤル・パレスで制したニュースによってでした。
ムーアは1967年、ノエル・マーレス師に呼ばれてイギリスに家族ぐるみで移住、この年のクラシックを総なめしたものです。曰く、1000ギニーをフリート、2000ギニーはロイヤル・パレス、ダービーもロイヤル・パレスで。
更にはキング・ジョージもバステッドで勝ちましたね。
ただしムーアとマーレスの関係はこの1年だけ。ジョッキーとしては最後の輝きだったようです。

彼の全盛期は1950年代。1959年の凱旋門賞では、プリンス・アリ・カーンの所有、アレック・ヘッド師が調教するセントクレスピンで劇的な勝利をあげています。このときはゴール前で4~5頭が横一線、写真判定ではセントクレスピンとミッドナイトサンの同着だったのですが、進路妨害のためにミッドナイトサンが2着に降着という激しいレースでした。
セントクレスピン、後に日本に輸出され、当時の最高額(3億円だったかな)で話題になったものです。Saint Crespin は「サン・クレスパン」と呼ぶべきなんでしょうが、当時の日本での表記は「セントクレスピン」でしたね。

オーストラリア出身でヨーロッパでも活躍した騎手といえばムーアとスコビー・ブリズリーが双璧。中でもムーアは大変な紳士、レスター・ピゴット、ゴードン・リチゃーズと並ぶ騎手界の巨星だったと言えるでしょう。
ジョッキーを引退した後は調教師に転じ、フランスから香港で活躍しました。特に香港ではチャンピオン・トレーナーであり続けましたね。
息子の騎手、ゲーリー・ムーアも凱旋門賞を制しています。
シドニーで家族に見守られながら死去、84歳でした。ご冥福を祈りましょう。

 

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