サルビアホール 第80回クァルテット・シリーズ

5夜に及んだロータス・クァルテットによるベートーヴェン・サイクル、6月14日水曜日、遂に最終回を迎えました。長いなぁ~、タフだなぁ~と思っていた全曲演奏会も、終わってしまえばあっという間、寧ろマラソン完走の寂しささえ漂います。
最終夜はフィナーレに相応しく、後期の超大作2本立て。この会もチケット完売で、100席(都合で参加できない席も数席ありましたが)がゴール・インに立ち会いました。

ベートーヴェン・サイクル2017≪第5夜≫

ベートーヴェン/弦楽四重奏曲第15番イ短調作品132
     ~休憩~
ベートーヴェン/弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調作品131

最後の2曲、演奏は番号順ではなく、あくまでもベートーヴェンが熟考の上に完成させた曲順。作品131はベートーヴェン自身が最高傑作と呼んだように、16曲の頂点と言うべきでしょう。
後期作品も多くがシュッパンツィーク弦楽四重奏団(シュパンツィヒよりこちらの方が現地発音に近いとか)が初演しましたが、作品131だけは持て余し、ベートーヴェンの生前には演奏されなかった作品でもあります。

この131、ロータスQがサルビア出演2回目に取り上げた曲目で、それが作品131のサルビア初演でもありました。今回の演奏も細部まで練り上げたもので、感想は前回時と全く変わりません。
緊張感が漲りながらも肩の力が抜け、ベートーヴェンの感興のままに音楽は自然に流れ、決して難解さや退屈感を寄せ付けない見事な響き。サルビアホールの理想的なアクースティックにも助けられ、正に至福の2時間でした。

前半に演奏された作品132も同じこと。第3楽章の「病癒えし者の神への聖なる感謝の歌」は悲しみでもなく、喜びでもなく、コラールに託して崇高なる感情がひたひたと聴く耳に迫ってくるのでした。
ロータスで聴くと後期四重奏曲と言う「取っ付き難い」印象は消え去り、まるで海綿に水が沁み込んで行くように自然に音楽が流れ込んでくる。

7楽章と破格な形式とされる作品131も、実は全体が通して演奏される作品。逆に単一楽章として聴けば、ロータスQでは短編奇談譚とでも表現したくなるような聴後感。
解説では第4楽章とされる長大な11ページ(ポケット・スコアで)も、様々に表情を変える8つの短編の如し。暖炉を囲んで老人の昔話を聴き続ける親近感さえ伝わってくるではありませんか。

そして完奏、もちろん真っ先に押し寄せてきたのが達成感であることは言を俟ちません。

ロータスQが組み立てた今回の全曲演奏、気が付いたのは、彼らが毎回同じ衣裳で通したこと。4人とも黒を基調とし、これが彼らのベートーヴェン・カラーなのでしょう。
4人の位置が、他の団体と比べて近いのもロータスの特徴で、これがより緻密なアンサンブル、緊張感を産み、4本の弦が一つの音響体として機能しているに違いありません。サルビアホールのアクースティックが、他のより広い空間での演奏以上にベートーヴェンへの親近感を引き出すことに貢献していました。
5年を過ぎたサルビアホールのSQS、このサイクルでは作品127がホール初演となり、作品131と共にロータス・クァルテットの名を刻むことになりました。

客席も全5回を通して聴かれたコアなファンが多く、スコア持参で鑑賞されている方を何人も見かけました。
全曲演奏会の意義は、全てを体験するということの他にも効用をもたらすことにもあります。例えば第3回のラズモフスキー全曲の会でも触れたシュッパンツィーク弦楽四重奏団と依頼者ラズモフスキー伯爵との関係。

私は漠然とラズモフスキーがシュッパンツィーク弦楽四重奏団でセカンドを弾いていたと空に覚えていたのですが、この会を契機により詳細な事実を知ることが出来ました。
同じ鶴見の常連である碩学氏が、ロバート・ウインター、ロバート・マーチン共著の「The Beethoven Quartet Companion」という書物の中に該当箇所を発見してくれたのです。

一部参考にさせていただいたところでは、ベートーヴェンの6歳年下でありながらベートーヴェンにヴァイオリンを教えていたというシュッパンツィーク Schuppanzigh は、少なくとも1793年にはリヒノフスキー侯爵の館で毎週金曜日の午前中に弦楽四重奏を中心にした演奏会を開いていた。
その当時のクァルテットで弾いていた人物を特定はできないものの、ヴィオラのフランツ・ヴァイス Franz Weiss (1778-1830) 、チェリストではアントン・クラフト Anton Kraft (1752-1820) と息子のニコラウス・クラフト Nikolaus Kraft (1778-1853) やヨーゼフ・リンケ Josef Linke (1783-1837) 、第2ヴァイオリンを弾いていたルイ・シーナ Louis Sina (?) 等がいた。
中でもリヒノフスキー邸の四重奏として活躍していたのはシュッパンツィーク、シーナ、ヴァイス、ニコラウス・クラフトの4人だったようです。みな、14歳から17歳の若者だったというのも驚き。

そして1804年から1805年の冬、シュッパンツィークは公の場で演奏するために弦楽四重奏団を組織します。これが音楽史上最初のクァルテットと呼ばれるもので、ファーストがシュッパンツィーク、セカンドはヨーゼフ・マイセダー Joseph Maysedar 、ヴィオラがシュライバー Schreiber (ファースト・ネームは不明)、チェロがアントン・クラフトで、恐らくこの4人がベートーヴェンの作品59を初演したのではないか、と考察されるようです。聴衆はサルビアと同じ、厳選された100人程だったというのも面白い記述。
ベートーヴェンに作品59の3曲を依頼した当のラズモフスキー伯爵は、1808年の秋にシュッパンツィークに、現代の言わばレジデント・クァルテットとでも言うべき四重奏団を組織するように提案します。これが今日にも伝わるシュッパンツィーク弦楽四重奏団で、もちろんシュッパンツィークを頭に、セカンドがラズモフスキー伯爵本人、ヴィオラはヴァイス、チェロがリンケというメンバー。ラズモフスキー伯爵には公務もあったことでしょうし、忙しい時にはシーナがセカンドを受け持ったと書かれています。
これが、私が何となく記憶していたシュッパンツィーク弦楽四重奏団の実態だったようです。

しかし好事魔多し、1814年の大晦日、ラズモフスキー邸はパーティーの準備中に出火し、館はほぼ全焼。これが伯爵の落魄の切っ掛けとなり、シュッパンツィーク弦楽四重奏団も解散を余儀なくされます。
シュッパンツィークは一時ロシアのサンクト・ペテルブルグに移り住み、彼の地でベートーヴェンの管弦楽曲や室内楽を紹介。1823年になって漸くウィーに戻り、ベートーヴェンの第9交響曲初演時のコンサートマスターを務めたのでした。

こうして再結成されたシュッパンツィーク弦楽四重奏団が苦労しながら初演したのがベートーヴェンの後期弦楽四重奏の諸作。ここからは上記著作の引用ではありませんが、確かセリオーソも初演は新生シュッパンツィーク弦楽四重奏団だったはず。
言わば第2次シュッパンツィーク弦楽四重奏団ではセカンドがカール・ホルツに替わり、ヴィオラはヴァイス、チェロのリンケという布陣はそのまま続いたようです。

作品127の初演は大失敗で、理由はベートーヴェンの作曲が斬新過ぎたというより、シュッパンツィークが恣意的な演奏をしたからとも。再演を願い出たシュッパンツィークに対しベートーヴェンは怒りを爆発させ、セカンド以下の3人をそのままに、ファーストをヨーゼフ・ベームに差し替えて再演し、結果は大成功だったということも千蔵八郎氏の「クラシック音楽の歳時記」に記載されています。
ベートーヴェンとシュッパンツィークの仲違いは一時的で、それ以降の諸作はシュッパンツィーク弦楽四重奏団が初演したし、シュッパンツィーク、リンケ、ベートーヴェン本人によって有名な大公トリオも初演されました。

以上のことは改めて、また新たに知りえた知見で、ロータスQのベートーヴェン・サイクルを聴いて受けた刺激が切っ掛けになった音楽史探索の旅。一般のアマチュア愛好家にとって、作曲家を取り巻く当時の演奏会事情に想いを馳せることも全曲演奏会の意義ではないでしょうか。
もし文才があれば、19世紀初頭の30年間をテーマにクラシック音楽大河ドラマを書いてみたいところですが、嗚呼無念、天はそういう才能を与えては下さらなんだ。

ということで実り多いサルビアホールのベートーヴェン・サイクルは終了しました。演奏されたロータスの皆様、企画されたサルビアホールの関係者諸氏、改めて労をねぎらうと同時に、聴き手からも感謝申し上げます。

 

 

 

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