二期会公演「ローエングリン」

2月25日の土曜日、上野の東京文化会館で二期会公演「ローエングリン」を観てきました。小生にとっては今年最初のオペラ鑑賞です。
隠居の身にとってはオペラは年に二度ほど、というのがここ数年の習わしでしたが、どうも2018年はオペラの当たり年のようで、既にこのあと「魔笛」「コジ・ファン・トゥッテ」「魔弾の射手」はチケット入手済みですし、多分「アイーダ」にも出掛けることになるでしょう。年に5本は行き過ぎかもしれませんが、原則として私は財布に優しい公演しか行きません、いや正確には行けません、か。

今回のローエングリンは都民芸術フェスティバルの参加公演でもあり、海外劇場の引っ越し公演などと比べれば遥かにお得。例えば秋に来日予定のローマ歌劇場のチケットの3分の1で楽しめますからね。それで名作オペラを再発見できるという余得もあるのですから、やはりオペラは出掛けて、聴いて、見て見なければ判りません。私が楽しんだのは小原ローエングリン組の二日目、全体4公演の最終日でもありました。

ハインリッヒ・デア・フォーグラー/金子宏
ローエングリン/小原啓楼
エルザ・フォン・ブラバント/木下美穂子
フリードリヒ・フォン・テルラムント/小森輝彦
オルトルート/清水華澄
王の伝令/加藤清孝
ブラバントの貴族Ⅰ/菅野敦
ブラバントの貴族Ⅱ/櫻井淳
ブラバントの貴族Ⅲ/湯澤直幹
ブラバントの貴族Ⅳ/金子慧一
小姓Ⅰ/久野綾子、田貝沙織
小姓Ⅱ/青柳玲子、高山美帆
小姓Ⅲ/藤長静佳、三小田晃子
小姓Ⅳ/中島千春、船越優
青年時代のローエングリン/丸山敦史
ゴットフリート/上村亜呂葉
合唱/二期会合唱団
管弦楽/東京都交響楽団
指揮/準・メルクル
演出/深作健太

東京二期会としては40年振りとなる新作舞台。指揮の準・メルクルが二期会に登場するのはイドメネオ、ダナエの愛に続く3回目で、演出の深作健太とはダナエの愛でもコンビを組んでいましたっけ。
今回のローエングリンは、昨今のバイロイトなどドイツ前衛の読み替え演出ほどには極端ではないものの、様々な演出上の斬新なアイデアが満載だったのが特徴。少し盛り込み過ぎて却って焦点がぼけたのでは、というのが私の第一印象でした。そのことに触れずには、感想は纏まりません。

深作演出の最大の狙いは、ローエングリンの舞台である933年という時代と、ワーグナーの大パトロンであったルードヴィッヒ二世の時代、つまりワーグナーと同じ時代とが同時進行していくところにあります。私は二期会のホームページや出演者のビデオ・メッセージなどでこの情報を得ていましたが、予備知識の無いまま当日を迎えた方は、ストーリーそのものを知らない人ならいざ知らず、さぞ面食らったことでしょう。
舞台下手には有名なルードヴィヒ二世の肖像画(この肖像画は後にも効果的に使われる)が置かれ、上手にもルードヴィヒ二世が手掛けたというノイシュヴァンシュタイン城?の模型(これも後に象徴的に壊される)と思しきものが設置されている。そして冒頭から舞台上で動き回っているルードヴィヒ風の男が、実はローエングリンその人であるということが、≪聖杯の動機≫に乗ってローエングリンが歌い始める白鳥への感謝の歌で明らかになるのでした。

二つの時代の同時進行という設定は、第1幕冒頭でデカデカと表示されるデジタル時計が遡ってカウントされていくことで暗示さるのですが、伝統的な演出でしか見たことのない人には、却って判り辛かったかも知れません。即ち深作演出では、ローエングリン=ルードヴィヒ二世であり、更に読み深めれば、
ハインリッヒ・デア・フォーグラー=ビスマルク
王の伝令=ルッツ(バイエルン王国首相)
フリードリヒ・フォン・テルラムント=グッデン(バイエルン王国の医師、国王と共に水死した人物)
エルザ・フォン・ブラバント=オーストリア皇妃エリーザベト
ということになるのです。この読み替え、プログラムに広瀬大介氏が書かれていましたが、幕が開く前に読んでおかないと理解できない事でもありましょう。

オルトルートの魔術によって白鳥の姿に変えられているゴットフリートが、この演出では最初から最後まで舞台に登場してきます。3幕冒頭、ローエングリンとエルザ二人だけの愛の場面でも、その様子を上階から見つめており、二人が口づけを交わす箇所では目を覆ったりもする。もちろんゴットフリートの姿は誰からも見えていない、という設定で、実はゴットフリートは後にブラバントの国王になる定め。最初から最後までお見通しだ、ということを表しているのだ、と理解しました。
ゴットフリートは黙役ですが、この演出ではもう一人、青年時代のローエングリンが黙役として登場します。こちらは伝統的なローエングリンの騎士風な出で立ちで、要所要所で歌手ローエングリンの真の姿?を観衆に意識させていました。黙役ローエングリンが青年である、と言うことは、歌っているローエングリンは後の成熟した姿なのか、それともそれ以前の子供なのか、あるいは両方なのか・・・。

ワーグナーの舞台作品は、指環を別にすれば、二つの作品が一つのセットになっていると見ることも可能でしょう。オランダ人とトリスタンとは海が舞台と言う共通点がありますし、タンホイザーとマイスタージンガーとには共に歌合戦があります。
その意味では、準・メルクルも指摘しているように、ローエングリンとパルジファルは同じ物語。ワーグナーに傾倒しているという深作氏は、矢に射られた白鳥を突然舞台に落として聴き手の注意を喚起。更にオルトルートには片目の眼帯を装着させ、それを着けたり外したりすることで悪と善の世界を行き来させる。これはオルトルートがクンドリーと同じ役割であることを連想させます。

善悪の対比は、即ちワーグナーが見事に描いたキリスト教の明るい世界と、これに抵抗する古い神々の暗い世界との対照でもあります。深作演出に共感したという準・メルクルも、ピットに入った都響から室内楽のような小さい音楽と、舞台上下と客席にまで動員したブラスを駆使した大きな音楽で対比し、オペラ全体に深みを与えていました。
この対比、第3幕冒頭のローエングリンとエルザには滑稽とも感じられる踊りを用意し、直後に訪れる禁問破りの悲劇との対照として描いたことにも通ずるのでしょう。ローエングリンの児戯性にスポットを当て、聴き手に笑いを、という試みは完全には成功しなかったように思いましたが、どうでしょうか。

この他にも演出上の細かい工夫は数多くあり、アットランダムに気が付いたことを列記すれば、
深作氏はこのオペラに非戦の思想を読み取ったようで、本来ならローエングリンを襲撃して返り討ちに遭うはずのテルラムントは死にません。そもそも第1幕の神明裁判にしても、ローエングリンは素手で対峙し、空手チョップ一発で勝利する。武器は象徴的な意味しか持たず、実際には使われないという演出に、戦争が迫っている現実に背を向けて城創りと芸術にのみ走ったルードヴィヒ二世を重ね合わせているのだと見ました。

オルトルートがリンゴを小道具として使うのも特徴。私などはリンゴからどうしてもアダムとイヴの事蹟、知ってはならないことを知ってしまうという警告を考えてしまうのですが、この場合のリンゴは「毒」を意味するのか。
3幕全てで舞台上方に三角形の大きな装置が吊り下げられていましたが、これは明らかに白鳥の象徴でしょう。全曲の最後でこの白鳥がゆっくりと下降し、ゴットフリート、エルザ、何故かオルトルート以外の人物を圧し潰します。これが何を意味するのか分かりかねるのですが、キリスト教的世界も、ヴォータンやフライヤに代表される古い神々たちも共に生き残る、という意味か。

全曲の最後で、冒頭に登場した巨大なデジタル時計が再現し、逆に1秒づつ正順に時を刻んでいく。もちろんゴットフリートの御代になり、エルザはそれを補佐して王国に幸福が訪れる、という意味付けでしょう。
とすれば、テルラムントの訴訟、ローエングリンの登場と神明裁判、禁問と破綻、ローエングリンの出立は、全てがエルザの夢だった、という解釈も成り立つでしょうか。

音楽は、前にも記したように、準・メルクル指揮する都響の演奏が真に柔軟で見事。特に小原ローエングリンが歌う「グラールの物語」は考えられる限りの弱音で歌い始め、これを支えるオケの繊細さは、これまでのワーグナーの概念を覆すほど。
ワーグナーと言えばマッチョな歌手が登場し、割れんばかりの大声量でホールを圧倒するというイメージでしたが、全く逆のアプローチでも、それに劣らぬ感動を与えてくれる。これに気付いたのが、今回のローエングリン最大の収穫でした。
ワーグナーは初めてという木下エルザ、その名前を見ない公演は無いほど活躍著しい清水オルトルートの存在感は、共に十分で、第2幕の二重唱は圧巻。その他キャストも適材適所で、何よりワーグナーの音楽の素晴らしさに改めて酔い痴れました。

以上、支離滅裂な感想になりましたが、深作演出のローエングリン、いやワーグナー作品は成長途上。これがバイロイトのように何年か繰り返されれば、より完成度の高い舞台になるでしょう。
残念ながら日本では、新国立劇場も含め、公演は一度限りで終わるのが常。新しい演出、斬新な舞台は聴衆と共に育てていくのが理想。一つ一つの公演に一喜一憂するのではなく、長い目で芸術を育てていく環境こそ、日本にとって必要なのではないでしょうか。毎度毎度思うことなのですが・・・。

 

 

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