二期会公演「マクロプロス家の事」

11月22日、日生劇場で行われた二期会公演「マクロプロス家の事」を見てきました。3回行われる公演の二日目です。
この催しは日生劇場の開場45周年を記念した特別公演で、日生劇場と二期会が主催。当劇場が行っている学生対象のオペラ教室ではありません。
キャストは二組、私が参加したのは22日のみのキャストで、もう一組は20日と24日に公演が行われます。22日はこういうキャスト。
エミリア・マルティ(ドラマティック・ソプラノ)/蔵野蘭子
アルベルト・グレゴル(テノール)/大間知覚
ヴィーテク(テノール)/高橋淳
クリスタ(メゾ・ソプラノ)/長谷川忍
ヤロスラフ・プルス男爵(バリトン)/初鹿野剛
ヤネク(テノール)/水船桂太郎
コレナティー博士(バス=バリトン)/勝部太
道具方(バス)/鹿野由之
掃除婦(コントラルト)/押見朋子
ハウク・シェンドルフ(オペレッタ・テノール)/加茂下稔
小間使い(コントラルト)/清水華澄
管弦楽/新日本フィルハーモニー交響楽団
指揮/クリスティアン・アルミンク
演出/鈴木敬介
まず特筆すべきは、これがチェコ語による言語上演であったことでしょう。ヤナーチェクのオペラ、特に晩年の「マクロプロス家の事」はチェコ語の会話の抑揚がそのまま音楽に生かされているので、他の言語に翻訳してしまうとどうしても歌と詞に齟齬が生じてしまいます。
しかしチェコ語は我々には馴染みのない言語、出演した歌手たちの努力は如何ばかりだったでしょうか。更にこれを支えたスタッフのみなさん、プログラムにも全員の名前が掲載されていましたが、この方たちの長期に亘る献身がなかったならば、このオペラ上演は実現しなかったはず。
今回の舞台に携わった全てのスタッフに敬意を表します。
ありがとうございました。
さてヤナーチェクの「マクロプロス家の事」、今回はこのタイトルになっていますね。従来は「マクロプロス事件」とか「マクロプロスの秘事」などという訳が使われてきたと思います。
プログラムによれば、ヤナーチェク協会の関根日出男氏、演出家の鈴木敬介氏とに相談した上で、チェコ語の意味に近い《事(こと)》という語を当てたのだそうです。
タイトルの問題は英語表記でも同じで、「The Makropulos Case」とか「The Makropulos Affair」が普通に用いられてきました。今やヤナーチェクの世界的権威である名指揮者チャールズ・マッケラスは、作品の内容に重点を置いて「The Makropulos Secret」がより相応しいと主張していますね。
チェコ語の原題 Vec Makropulos の「Vec」( e には楔形の修飾が付きますが)は、英語の「thing」に相当します。ですから今回の「マクロプロス家の事」という表記は、言葉の原意に近いということでしょう。
因みに「Vec」はカタカナ読みすれば「ヴィエッツ」だそうですね。むしろそのまま「ヴィエッツ・マクロプロス」でも良いのじゃないか、などと考えてしまいました。
また「家」という概念にも注目しました。オペラの主人公の本名(と言うか、最初の名前)はエリナ・マクロプロスで、歌劇にはエリナ本人しか登場しません。しかしこの悲劇(または喜劇)の元になった不老不死の秘薬を処方したのはエリナの父、ヒエロニムス・マクロプロスなのですから、「家」の問題という解釈なのでしょう。それにエリナが産んだ子供の末裔もオペラに出てきますから、「マクロプロス家」という表記になったのでしょう。この辺は日本的解釈でもありますか。
このオペラはストーリーが錯綜しています。オペラではエミリア・マルティとして登場するヒロインは、秘薬の実験台になったお陰で300年以上の寿命を持ち、若さと美貌を失いません。しかし300年(オペラの時点では337歳!!)も同じ名前で生きるわけにはいかず、60年か70年ごとに名前を変えます。ただしイニシャルのE.Mは不変。第3幕の舞台はエミリアが逗留しているホテルの一室ですが、ここに置かれたトランク類には全て「E.M」のイニシャルが打刻してあるのです。
時にエルザ・ミュラー、時にエリアン・マックグレゴル、時にイエカチェリナ・ミシュキン、時にエウへニア・モンテス。
さて本題。
私は「マクロプロス家の事」をナマで体験するのは初めてのことです。以前に東京交響楽団が演奏会形式で取り上げた時は、大嫌いな指揮者だったのでボイコット。今回は聴き逃せません。仮に私が地方在住の身であったとしても、東京遠征を企てたに違いありません。それほどに期待の舞台。
劇場に到着し早速プログラムを購入、ホールに入ると知った顔、顔、顔。指揮者、演出家、歌手、評論家など音楽業界はもちろんのこと、実業界からも私でさえ顔と名前が一致するお歴々がゾロゾロ。如何に世間の注目度が高い公演であるかを象徴していました。
鈴木敬介の演出。極めてオーソドックスなもので、ストーリーが錯綜しているだけに、作品のあるがままの姿を忠実に再現して見事です。
感銘深かったのはパンテリス・デシラスの装置。各幕の冒頭で紗幕が上がるたびに眼前に展開する舞台の息を呑むような美しさ! これぞ舞台、と叫びたくなるような装置なのです。
主役の蔵野を初めとする歌手たち、チェコ語を見事に操って夫々が持ち味を発揮していました。誰が、何処が、という不満は一切ありません。全員にブラーヴィを捧げます。もちろんプロンプター氏にも。
アルミンク指揮する新日本フィルも立派に重責を果たしました。ピットが狭いこともあって、ティンパニが舞台上手のバルコニーのようなスペースで叩いていましたが、近藤氏(多分?)の妙技が見られたのも珍しい光景でしたね。
幕間でピットを覗いてみましたが、指揮台に置かれた膨大なスコア。各幕ごとの分冊になっているのでしょう、如何にも貸譜の顔付きです。何人もの指揮者たちが捲ったであろうスコアの、ページが何重にも折れ曲がっていたのが印象的です。
(ユニヴァーサルさん、早く全曲奏譜を出版して下さいな。校訂とかいろいろ大変な作業があるんでしょうが・・・)
それにしてもヤナーチェクは何という音楽を書いたのでしょうか。涙腺を刺激すること極まりない音楽。
初めて接した舞台、第1幕は正直、“え、何これ。これでもオペラ?” という印象。
第2幕は、“なるほどね、オペラには違いない、うん”。
そして最後の第3幕。大袈裟な悲劇があるわけでもない、腹を抱えて笑う喜劇でもない、歌手の声をタップリ聴かせるアリアがあるわけでもない。にも拘らず感動のあまり涙が出てくるのを抑えることも出来ない。
思えば2006年に同じ日生劇場で見た「利口な女狐の物語」でも、ヤナーチェクの音楽そのものに感動して泣いたのでした。その同じ涙。
「マクロプロス家の事」が最後に聴衆に訴えたのは、“人生も美貌も愛も、限りがあるから美しく尊い”ということ。その普遍的事実を改めて我々に問いかけ、素晴らしく独創的な音楽に乗せて謳い上げてくれるヤナーチェク。
オペラを聴き終えた聴衆は、“残された限りある時間を大切に、慈しむ様に生きていこう”、そう心に誓って会場を後にしたのでした。

 

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