読売日響・第578回定期演奏会

梅雨入りも間近、と思わせる様な雨の中、赤坂サントリーホールで読響の5月定期を満喫してきました。出演者とプログラムは以下の通り。

プロコフィエフ/アメリカ序曲変ロ長調作品42a
バーンスタイン/交響曲第2番「不安の時代」
     ~休憩~
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番
 指揮/イラン・ヴォルコフ Ilan Volkov
 ピアノ/河村尚子
 コンサートマスター/長原幸太

読響と言えば、ご存知のように今期がカンブルラン首席の最後のシーズンで、次期首席指揮者が誰になるのかが気になっていたところ。「セバスティアン・ヴァイグレ氏が、2019年度から常任指揮者に就任」という発表があったばかりで、この日手渡された案内チラシにも、号外風にペラ1枚が挟まれていました。カンブルランには桂冠指揮者の称号が与えられるということで、2019年度以降も定期的に読響の指揮台に上るのでしょう。

ヴァイグレに決定したことで、読響は再びドイツ音楽に軸足を移すものと思われますが、5月は試行錯誤する読響の姿が見える様な一ヶ月でもあります。読響機関紙「マンスリー・オーケストラ」を開くと、いつものように今月のマエストロ Maestro of the Month と、今月のアーティスト Artist of the Month というコーナーが飛び込んできますね。4月末から5月にかけてのマエストロはアジス・ショハキモフ Aziz Shokhakimov 、ヤデル・ビニャミーニ Jader ignamini 、そしてこの日のヴォルコフと3人。全てが読響初登場の指揮者たちで固められていました。
一方ソリストたちの顔ぶれも、定期の河村尚子を別にすれば、ピアノのガブリエラ・モンテーロ Gabriela Montero 、ヴァイオリンのアルベナ・ダナイローヴァ Albena Danailova とクロエ・ハンスリップ Chloe Hanslip と美女ばかり3人。この3人も全て読響には初登場とあって、同オケが新しい体制を目指して試行錯誤しているように見えるじゃありませんか。ということで初物尽くしの5月読響ではあります。

で、定期のヴォルコフ。彼はもちろん日本は初めてではなく、都響・東響・名フィルとも共演経験があり、既に「鬼才」ぶりに接したファンも多いでしょう。私もナマで聴くのは今回が初体験でしたが、最近のプロムスには何度も登場、かつて主兵を務めていたBBCスコティッシュやアイスランド響との共演をネット中継で聴き、感想も当ブログ上にアップしてきたお馴染みの指揮者でもあります。(今年のプロムス感想日記は止めにす雄介るつもりですが、こうした記録は後で読み返すと記憶の手掛かりになるもの。チョッと迷っているところでもあります。)

1976年イスラエル生まれですから、紛れもないユダヤ人。19歳で指揮者デビューし、小澤征爾のボストン響でアシスタント・コンダクターを務め、BBCスコティッシュの首席指揮者に就任した時は、同オケ史上最年少だったということは、拙ブログでも紹介しましたし、ヴォルコフのプロフィール紹介記事には必ず登場するポイントでもあります。
2014年にアイスランド響の音楽監督を辞してからは特別なポストに就いていないようですが、アイスランド時代に設立したテクトニクス・フェスティヴァルの監督は現在でも続いているようで、この催しは電子音楽やロックを含む何でもありの企画みたいで、これを持って世界を巡るという、如何にも今風な音楽家と言えそうです。自身のホームページなどはないようですが、エージェントが発表している紹介分はこちら。↓

http://maestroarts.com/artists/ilan-volkov

実はヴォルコフ、去年はサントリーホール夏の現代音楽祭(東響)にも登場しましたし、今回も読響主催ではないものの、東京オペラシティーの企画、コンポージアム2018で韓国の作曲家・ウンスク・チンの作品を読響と演奏したばかり。この時は3曲全てが日本初演と言うタフなコンサートだったようで、ヴォルコフの本領は同時代の音楽にあるのかもしれません。今回はヴォルコフとしては大人しい選曲でしょうか(他に横浜でブラームス・メンデルスゾーン・ムソルグスキー=ラヴェルというプログラムも)。

冒頭のプロコフィエフは、滅多に演奏されないレアもの。あのロジェストヴェンスキーやラザレフでさえやっていない? と思われます。もちろん私はナマ初体験。
プロコフィエフらしい大音量と抒情的な音楽が交錯する10分ほどの小品で、ザッと聴いた印象ではA-B-A-C-Aのような構造でしょうか。プロコフィエフとしてはA素材ではなく、機会音楽のような印象。

2曲目は、個人的には今年3度目のナマ体験となるバーンスタイン「不安の時代」。京都と同じくソロを務める河村はオーケストラの中で、ピアノの蓋を取り払って弾くため、プロコフィエフの時からピアノがオケ中に鎮座していました。
京都では指揮の広上と河村が、何故このように演奏するのかについて詳しく紹介、作品の内に秘められたバーンスタインの意図にまで及んだプレトークで客席を納得させてくれましたが、読響ではそうした解説は一切無し。作品に付いては各自が予習し、当日はプログラムを読んでください、という姿勢に徹しています。もちろんこの方が先入観なく聴けて良い、という会員も多いのでしょうが、余り演奏される機会のない作品に付いては、個人的には不親切じゃないか、と感ずることもあります。

この点にもう少し深入りすると、3代前の首席指揮者ゲルト・アルブレヒトは現代作品を積極的に紹介し、読響委嘱作品などはプレトークでアナリーゼをするほど微に入り細に亘って啓蒙に務めていたことを思い出します。当時正指揮者だった下野竜也もこれを引き継ぎ、自ら客席に語り掛けるというコンサートもいくつかありました。
スクロヴァチェフスキが首席になって以降は、こうした積極的な姿勢は後退。定期の前に事務局がプレトークを行う試みも何度か行われましたが、いつの間にか立ち消えになってしまいましたね。その分、プログラム誌を充実と考えているようですが、少なくとも私には物足りなく感じられます。

例えば、偶然ながら私は現在ハンフリー・バートン著のバーンスタインの伝記を読んでおり、丁度「不安の時代」に差し掛かったところ。この書物には作品の詳しいアナリーゼが掲載されており、それと比べると、今回の解説(柴辻純子氏)は、失礼ながら余りにも表面的ではないか。また別稿「ショスタコーヴィチとバーンスタイン」(中川右介氏)にはバーンスタインが、「ブロードウェイ・ミュージカルという商業主義のなかで成功すると同時に、エレミアや不安の時代という「売れない音楽」を書くことで、バランスをとっていた」とありますが、これも少し違うのじゃないか、という感想を持った次第。
毎月素晴らしい演奏を繰り広げ、オーケストラ音楽の醍醐味を満喫させてくれる読響だけに、客席へのアピールがもっと熱くても良いのではないか。それが私の小さな不満でもあるのです。

もちろん演奏、バーンスタインもメインのショスタコーヴィチも大満足の一夜でした。今回は一言もメッセージを聞けませんでしたが、河村の作品に対する想い、分析力は京都で十二分に確認。東京でも堂々たる存在感を示してくれました。
ヴォルコフも、この1回のみで軽々しく言うのは慎みたいと思いますが、オーケストラをコントロールする力量は相当なものだし(絶妙だった強弱のバランス)、作品に対する理解力(何処を聞いても、作品の現在位置が明瞭に聴き取れる)、それをオーケストラに伝えるコミュニケーション力(要所要所で楽員に的確な指示)にも長けていると感じます。

髭モジャのご面相は別として、スリムな長身。指揮棒を使い、スコアもチャンと見ながら指揮するスタイルも、個人的には好感を持ちました。客席も大いに沸き、ヴォルコフと読響は最初で最後、ということにはならないと期待しましょう。

 

 

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