読売日響・第500回名曲シリーズ

読む人に判らないように間に別のネタを入れて眩ませていますが、実は演奏会に3レンチャンで通いました。3月は2度目。もう一度あります。コンサートばっかり行ってる、アホじゃないか、よくそんな金がある、と批判されるでしょうねぇ。人のことは言えん。
しかし3レンチャンは限度、と言うことにしている積り。あんまり連続で音楽を聴けば、どうしても頭が鈍ってきますね。これ実感。
ということで、鈍り切った限界の頭で聴いたのは読響の名曲シリーズ、記念すべき500回目だそうです。
読売日響・第500回名曲シリーズ サントリーホール
 ベートーヴェン/「コリオラン」序曲
 ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第5番
      ~休憩~
 ベートーヴェン/交響曲第7番
  指揮/下野竜也
  ピアノ/ボリス・ベレゾフスキー
  コンサートマスター/小森谷巧
  フォアシュピーラー/鈴木理恵子
ベートーヴェンは偉大な作曲家です。私も大好きです。しかし正直に告白すれば、オール・ベートーヴェン、しかも誰もが名曲と認める作品ばかり。今更興味津々で出掛ける、という気にはなり難いのです。まぁ、今回は指揮者の魅力で腰を上げたのでしたが、連続券もあり、「聴きどころ」を書いた手前もありますからね。
その券ですが、早々と完売になっていたのだとか。こういう事実を聞くと、私としてはガッカリしてしまいます。客席を満席にしたければ、この種のプログラムを組めばよい。一部ブランド力のあるオーケストラを別にすれば、どのオケも集客に苦労しているのが現実。その中でどこも歯を食い縛るようにして、「意欲的な」プログラムを組むべく努力しているのです。
逼迫する財政危機に負け、安易なプログラムに走る誘惑が隣り合わせになっている、これはそういうプログラム。
まぁ、読響は良い方です。名曲シリーズと雖も意欲的プロを並べていますし、財政的には極めて恵まれている御三家の一つ。それは演奏にも現われています。
私が懸念するのは、他のオーケストラが見て、これを集客の手本にしてしまうのではないか、ということですね。あ、ヤッパリ売れてるなぁ~~、と。
さて感想。
ピアノ協奏曲から行きましょうか。ベレゾフスキー、実に腕の立つ人です。猛烈に速いテンポで突き進む。客席は大喝采。
しかし私としては、これじゃ困るんですねぇ。
私はもちろんドイツ音楽が好きです。しかし他の地域にも素晴らしい音楽があります。私はドイツ音楽は好きですが、唯一絶対な物とは決して考えません。古典音楽についても同じ。
ドイツ音楽は国民学派の一つに過ぎん、古典派の音楽は音楽史の一時代の音楽に過ぎん。そういう姿勢なんであります。
しかしドイツ音楽を聴く時は、やはりその特質である、精神的に重く、暗い内容を求めたいのです。老人の僻みかも知れんけどね。
ベレゾフスキーの皇帝は、技術的な完璧さ、音楽的な見事さについては第一級です。文句をつける所はどこにもない。しかし、精神的には何もないのです。ほとんど空っぽ。
第1楽章の序奏、華やかなカデンツァ楽句を終えてアレグロに入る瞬間を聴いて御覧なさい。気持ちを高めて堂々たる主題に突入する感動は、ここには微塵もなかった。単にテンポがアレグロで安定するだけ。
第2楽章も同じ。ここは祈りの音楽、というのが私の理解です。しかしベレゾフスキーのは単なる主題と変奏に過ぎん。まぁ、第3楽章はいいでしょう。しかし先立つ二つの楽章に精神的な重さがあっての開放感。開放のしっ放しじゃベートーヴェンじゃありませんな。
ということでボロクソにこき下ろしました。
アンコールが二つ。私はピアノ音楽はレパートリーじゃないのでよく知りませんが、ラフマニノフの13の前奏曲の5番。もう一つはメットネルの「おとぎ話」という曲集から「リア王」というものだそうです。ロビーに掲げられた表示ではそうなっていました(これ、あんまり当てにならないんですけどね)。
しかしこのアンコールは素晴らしかったですね。ベレゾフスキーは当たり前だけど、ロシアのピアニスト。ロシア音楽こそ世界最高のもの、という自負すら感じられます。ここには世界最高のピアニストの姿がありました。ひょっとすると、皇帝をあんなテンポで弾き切ったのは、アンコールの時間を捻出するための作戦だったのに違いないでしょう。
ベレゾフスキー、ロシア音楽ならいつまでも聴いていたい。しかしドイツ音楽はノーサンキューですね。これなら面白みはないけれど、アンゲリッシュの方が私にはピンと来ます。
序曲と交響曲。これは38歳の若手指揮者と、大変身を遂げたオーケストラの相思相愛が生んだ、これ以上考えられないほどの精気溢れるベートーヴェン。客席の大喝采に私も同感です。
一言で言えば、下野はベートーヴェンの書き下ろした音楽を、そのまま演奏したのです。ベートーヴェンが書いた通りの音楽を演奏すれば、名演奏になる。そんな当たり前のことを実現したに過ぎません。
フィナーレのコーダにはアッチェレランドなど書いてありませんし、fff を指定した箇所はその通りに fff でしたし、ff は ff のままでしたしね。
この日の演奏で、世間はますます「下野! 下野!」の大合唱になるでしょう。しかし本当に凄いのはベートーヴェンなのです。それを忘れちゃいかん。そんなことは下野本人は一番よく判っていること。彼に言わせれば、 “ベートーヴェンが偉い。それだけ” と言うに違いないのです。
ベートーヴェンが書いたとおりに演奏する。しかしそれが出来ない演奏家が意外に多いのですよね。
ただ私としては超私的な不満を二つ。
一つは第3楽章のトリオ。テンポがほとんどスケルツォと同じでしたが、もう少し遅いテンポの方が私の好みです。この楽章は、スケルツォ-トリオ-スケルツォ-トリオ-スケルツォ、という5部形式。ベートーヴェンが第4交響曲で創案した形式ですね。あのテンポでは、この形式感が今一つ伝わり難いような気がするのです。
トリオにはトランペット殺しとも言うべき難所があります。確かに遅いテンポではトランペットに負担が掛かるのは判り切っていますので、その配慮があったのかも知れません。しかし読響のトランペット、彼らが能力の限界まで追い詰められて破綻する、そのスリルがあっても良いんじゃないでしょうか。
もう一つは管楽器。この日は16型の弦に対し、ホルンだけが倍管で、他はオリジナル通りの2管。最近は誰でもこのスタイルですが、やはり要所では木管が消されてしまいます。
ここは少し前のスタイル、木管も倍管でやって欲しかったなぁ~。読響の猛烈なパワーで聴いてみて、少し不満が残った所です。
(協奏曲では1プルト減らし、14型で演奏とていたことを付け加えておきましょう)
アンコールはバッハの管弦楽組曲第3番の「エア」。俗に言うG線上のアリアです。もちろんG線なんかでは弾きませんよ。
これよくアンコールに使われるのですが、いつも思うことは、バッハをメイン・プログラムで演奏して欲しいということ。たっぷりとした現代楽器、普通にビブラートをかける演奏。そんなバッハ、下野くん、批評家や学者の批判を気にせず、一度チャレンジして下さいな。

 

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