サルビアホール 第107回クァルテット・シリーズ

1月21日、鶴見サルビアホールで今年最初のクァルテット・シリーズが行われました。私にとっても2019年の室内楽聴き初めで、いきなり現代作品が炸裂するという強烈な体験です。
つい先日、主催者(横浜楽友会)から年間予定の総合チラシが送られてきましたが、今年は大阪国際室内楽コンクールが第10回を迎えるとあって、同コンクールの優勝団体を中心としたシリーズが続くようです。これにサルビアならではの今旬クァルテットを加えたシーズンの数々はどれも聴き逃せない回ばかり。更には来年のベートーヴェン・イヤーに開催されるプラジャークQによるベートーヴェン全曲サイクルも日程が決まり、ここ暫くはサルビアホールに振り回されるコンサート通いを覚悟しなければならないでしょう。

以上は前置きで、今回は3回で構成されるシーズン32の1回目、今回が4度目の登場となるクァルテット・エクセルシオが、活動の中心の一つでもある同時代の作品を実験的に並べたシリーズであるラボ・エクセルシオを引っ提げての登場となりました。
これまでラボ・シリーズは様々な会場で開催されてきましたが、今回と少なくとも来年はサルビアホールが舞台。小生もこれまでのシリーズを「ラボ・エクセルシオ第何回」としてレポートしてきましたが、今回はクァルテット・シリーズの回数で紹介していきましょう。プログラムは見て仰天、聴いて衝撃の4曲です。

ナンカロウ/弦楽四重奏曲第1番
一柳慧/弦楽四重奏曲第3番「インナー・ランドスケイプ」
     ~休憩~
ナンカロウ/弦楽四重奏曲第3番
ブリテン/弦楽四重奏曲第1番ニ長調作品25
 クァルテット・エクセルシオ

本題に入る前に、先ずエクセルシオのこと。既に公式発表されているのでここで書いても問題は無いと思いますが、これまで15年間に亘ってセカンド・ヴァイオリンを務めていた山田百子氏が昨年秋を以て退団されました。今年の6月に予定されている東京定期から新しいセカンドが迎えられるということですが、それまでの間は会によってピンチヒッターが替わるという体制でエク自体のコンサートは続けられるようです。山田氏のこれまでの労をねぎらうとともに、エクの今後の更なる進化を祈念しましょう。
今回の第2ヴァイオリンは、エクのメンバーと同じ桐朋学園出身の甲斐史子(かい・ふみこ)。経歴を見ると現代音楽のジャンルでも経験と実績を積まれているようで、ラボには最適のゲストでした。

さてラボ・エクセルシオは演奏会前にプレトークが行われるのが決まり。今回もホールを午後6時20分に開場し、6時半から20分間のトークがありました。司会は恒例の渡辺和氏で、通称やくぺん先生が一柳氏にインタヴューするという形で進められます。
ポイントを四つ程に絞って纏められましたが、細かいことは書きません。ただ近い将来、氏の弦楽四重奏曲全集がCDとして纏められるそうで、中には番号の付いていない最初の作品、いわゆる第0番も含まれるのだとか。これは室内楽ファン、現代音楽オタクには大朗報で、これを機会にスコアも全てが揃うことに期待しましょう。なぁ~んちゃって。
もう一点、今回取り上げられた第3番は、作曲者ご本人が精神的に最も辛い時期に書かれていたとのこと。一柳氏自身が書かれているエクの総合プログラム誌には書かれていませんが、これこそが聴き手にとって最大の聴き所ではないでしょうか。少なくとも私にはそう感じられました。

ということで、最初は一柳作品のレポートから。実は第3番は未だショット社からスコアの売り譜がなく、譜面はレンタル状態。従って耳からだけ得た感想となります。
解説によれば、「この曲は、客観的あるいは人工的に切り取られた時間に対して、生きている時間とは何なのか、ということに対する問いかけであると言ってもよいだろう」とありました。なるほど、と思っても小生の頭では良く理解できないのですが、単一楽章(全曲は一気に演奏される)で書かれた4つの声部は常に緊迫感が漲り、トークで語られた秘話を聞いた直後でもあるのでしょうか、哲学的な感銘をすら受けました。作曲者名やタイトルを伏せて聴いたとしても、日本人の心や、物成りの良い風景が浮かぶ、正に我が国の音楽という印象。

一柳氏とのプレトークでも話題になっていたのが、今回がサルビア初登場となるアメリカの鬼才ナンカロウの2曲。第1番と第3番がプログラムの前半と後半で紹介されましたが、第2番という弦楽四重奏曲は存在しません。第2番は手掛けられたものの完成せず、ナンカロウのクァルテットは2曲だけ。ではなぜ第3番なのか、という辺りも作品を理解する手掛かりの一つかも知れませんが、「String Quartet No.3」がタイトルそのものなのでしょう。
戦後のアメリカには実験的な音楽を作ったり演奏している人が多く居て、ナンカロウも当時は One of them 。それが一柳氏がアメリカ時代にナンカロウを知った(直接会ったことは無い由)感想だったそうですが、ナンカロウは演奏家の手を介しない自動ピアノのための作品で有名になった人。それが何故ブレイクしたかと言えば、リゲティがその革新性を指摘してナンカロウを紹介したことが切っ掛けだったと記憶しています。

私はナンカロウを聴いたことが無く、ほぼ1年前に今回のプログラムが発表されたのを機にスコアを取り寄せました。アメリカ・メリーランド州のスミス・パブリケーションズという出版社で、カタログをダウンロードし、メールで欲しい楽譜を商品番号で注文してくれ、という如何にもマイナーな感じ。今回はその譜面を参考にしながらレポートしていきましょう。
演奏会の幕開けとして披露された第1番、チェロ大友曰く“変てこな音楽”なのですが、後半で紹介された第3番に比べれば、遥かにマトモなクァルテットと言えるでしょうか。

ナンカロウの特色を乱暴に一言で表現すれば、ジャズとバッハの融合、か。そして弦楽四重奏という既成概念の破壊、ということになろうかと思慮します。
第1番は3楽章から成り、第1楽章 Allegro Molto 、第2楽章 Andante Moderato 、第3楽章 Prestissimo と、これは普通。第1楽章はヴィオラ→セカンド→ファーストの順にテーマが登場しますが、ここは小さなフーガの手法。チェロは漸く第11小節目になってからピチカートで入ってきます。基本は4声部とも8分の6拍子。
暫くして後半、ここはファースト→セカンド→ヴィオラ→チェロの順に別のフーガ主題が繰り出されますが、夫々に使用弦の指定があるのが変わっていて、ファーストはE、セカンドがD、ヴィオラとチェロはC弦で弾け、と書かれています。
この楽章、残り8小節の段階で次第にクレッシェンド、と指定されていますが、これが後の第3弦楽弦が四重奏の革新的発想に繋がっていくのは間違いなさそうですね。

第2楽章も変わっていて、楽想は普通のシチリアーノというか8分の12拍子ですが、最初の21小節、ヴィオラは沈黙したまま。漸くヴィオラが入ってくると同時にファーストは役目を終えてしまい、残り18小節ではセカンドもお仕舞。後はヴィオラとチェロが淡々と二重奏を続けるという音楽で、4声部になる箇所は一つもありません。因みに順次弾き始められるテーマも全てフーガ形式。
第3楽章も変てこで、基本はアラ・ブレーヴェ(2分の2拍子)ながら3連音と5連音が同時に進行する箇所も。3と5では噛み合う術もないけれど、この楽章は結構ノリもあって、薄いながらもジャズ風な楽章。4つの声部が3小節のユニゾンで全曲を締め括ります。

この第1番で違和感を抱いたとしても、それは未だ序の口。後半、第3番を演奏する前に大友氏が一人登場し、第3番の構成について簡単に解説されました。要は、4つの声部が一人は3拍子、一人が4拍子、更に5拍子と6拍子のパートが個々に演奏し続け、弾いているテーマは同じでも4人が別々に喋る風景を想像してみてください、との前置き。これがなくては、いや、あったとしても聴き手は何がどう進行しているのか狐に摘ままれているような経験となるのを覚悟しなければなりません。
そもそも楽章は第1、第2などとは表記されず、3つの部分がA・B・Cに分けられています。そしてAとCはチェロが3拍子、ヴィオラは4拍子、セカンド5拍子、ファースト6拍子で貫かれています。Bはその逆で、ファーストからチェロの順に3・4・5・6拍子で統一。アレグロやアンダンテなどの速度記号は一切なく、A=72、B=50、C=92という無機的な速度指定。
全員の拍子が違うのですから、物理的に縦線は合いません。唯一、最後の最後で4つの声部がユニゾンでラ・シ・ドの3音を一斉に奏でて終了。最後が揃えば演奏は成功、というナンジャラホイなのであります。

例えばAは3拍子のチェロから始まって順次ヴィオラ、セカンド、ファーストと加わってくる。拍子は違えどメロディー、というか音の並びは同じで、大きな意味でバッハ風のフーガで書かれては、います。
バッハと違うのは、第1番でも使われていたように、順次演奏を終えていくという逆フーガ。Aでは第101小節でヴァイオリンが止まり、第108小節でセカンド終了。ヴィオラは第121小節で役目を終え、残り24小節はチェロの独り言でAを終えるという構造になっています。

Bは主にハーモニックス奏法で弾かれ、チェロ→ヴィオラ→セカンドの順に音が止まり、最後はファーストのみの世界。超高音が途切れ途切れに鳴るのですが、全ての音符にマル印が付されるハーモニックスによるピツィカート。聴き手も、他の3人もファースト西野の独り舞台に口アングリ状態が何処までも続いて行くのでした。
Cは更に難物で、Aと同じように3拍子のチェロ・ソロからスタートしてヴィオラ4拍子、セカンド5拍子、ファースト6拍子のフーガ。スコアを見て予習していると、突然ページが飛んでしまいます。実は26ページと27ページが入れ替わって印刷されており、それはスコアに添付されている正誤表で対応せよ、との指示。どうやら楽譜は1990年に印刷されたようですが、今の今まで印刷し直すでもなく、正誤表で対処するとは何という神経なんでしょう。この辺りを演奏後にそれとなく大友氏に聞いてみましたが、意図したものじゃなく単なる印刷ミスでしょうとのこと。日本じゃ考えられない、如何にもアメリカ音楽だ、と妙に感心してしまいましたわ。

傑作なのはこれだけじゃありません。スコアで言えば28ページ、第330小節からが所謂コーダなのですが、ここもフーガ的入り方。全体にアッチェレランドの指示があるのですが、最初のチェロは3%、ヴィオラ4%、セカンド5%、最後のファーストには6%と加速の度合いに関する指定があり、トリルとグリッサンドだけで書かれているコーダは最後に向かってヒート・アップ。遂には全曲で初めてとなる合奏、ユニゾンのラシドで全曲が終わるのでした。4人が顔を見合わせて、合ったね、成功だね、と目配せしているのは見物でしたよ。

サルビアホール開闢以来の大混乱に続いて、今回のメインはブリテンの第1番。彼のアメリカ時代、1941年ですから作曲者28歳の若き作品です。それなりにモダーンな感覚が鏤められていますが、ナンカロウを聴いた後では何とも美しく、耳に心地よく響くのでした。特に第3楽章、パッサカリアを連想させるようなアンダンテが圧巻で、ここはほぼピーター・グライムズの世界。ブリテンは、最初からブリテン以外の何物でもなかったことを確認した次第です。
ナンカロウと並べて聴く一柳、ブリテンが、単独で聴く以上に、作曲家の個性的な音楽として聴き手に伝わってきたことは間違いないでしょう。それだけナンカロウが特殊な世界か、ということの裏返しでもあると思いました。

来年のラボ・エクセルシオ、やはり1月に細川俊夫作品を挟んでブリテンの残り2曲、2番と3番が披露されることが発表されています。これに懲りずに、現代音楽ファンならずとも鶴見に来てくださいな。

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