読売日響・第497回名曲シリーズ
私にとって読売日響による今年最後のコンサート。名曲シリーズですが、この時期恒例の第9です。
ベートーヴェン/交響曲第9番
指揮/下野竜也
独唱/林正子、坂本朱、中鉢聡、宮本益光
合唱/新国立劇場合唱団
合唱指揮/三澤洋史
コンサートマスター/藤原浜雄
フォアシュピーラー/鈴木理恵子
あちこちで大絶賛の下野/第9ですが、私は少し複雑な感想を持ちました。それは後にして、記録として何点か書き残しておきます。
まず編成ですが、典型的な対抗配置を採用していました。下野のベートーヴェン体験は第1と第5に続く3曲目ですが、対抗配置は初めてのような気がします。恐らく第2楽章の弦楽器の入りを意識したのでしょう。
第9の演奏としては珍しく1プルト少ない14型でしたね。合唱をP席でなく舞台に配置したスペースの問題ではなく、ここにも下野の拘りがあったと解釈しています。
合唱団はよくあるアマチュア・コーラスや学生たちの合唱ではなく、れっきとしたプロ集団。少な目の人数でも迫力は充分です。昔聴いたベルリン・ドイツ・オペラほどではないにしても、数が少ない方が響きは透明になるし、私にとってはこのぐらいのサイズが理想です。
指揮台に置かれていたスコアはカーマス版のようにも見えましたが、ハッキリしません。下野は楽譜を開くことなく、暗譜で振っていました。
第1楽章第2主題こそベーレンライターを採用していましたが、終楽章は旧来のブライトコプフ。楽員が捲るパート譜の古さから判断して、基本はブライトコプフ、ごく一部にベーレン採用と聴きました。
第2楽章の繰り返しも全て実行、伝統的な「改竄」などは一切せず、スコアに忠実に徹していたようです。ただし、ピッコロとコントラファゴット奏者には夫々フルートとファゴットを吹かせて補強している部分もあったようです。
第3楽章のホルン・ソロも譜面どおり4番(私の席では確認できませんが、状況から判断してそうだったと推測しています)。
もう一つ。コーラスはもちろん、ソリストも最初から舞台に登場する方式でした。良し悪しは判りませんが、第3楽章と第4楽章の間にも「休み」を置いていましたから、アタッカ流れ込みスタイルのための準備ではなかったようです。
さて、演奏。いかにも下野らしい、スピード感に溢れ、ケレン味の全く無い正攻法真剣勝負でした。聴いた後に爽やかさが残る快演。
オーケストラの上手さ、凄さは並みのものではなく、今や読売日響は世界でも5本の指に入るレヴェルだと実感しました。特に第3楽章の美しく澄み切った響きは喩え様もないほど。言葉を失ってしまいました。
オケの実力は最後の最後、滅茶苦茶と言ってよいほどの猛スピードでも一切破綻しないことでも明らか。
このテンポは、かつてシェルヘンがどこぞのオケで演奏した録音を聴いた覚えがありますが、あれはオケが完全に崩壊していましたからね。
ということで大満足、と言いたいところなのですが、そうならなかったのが第9の難しいところ。この後は下野ファンには読まれたくないのですが、そう感じたのだからしょうがない。尤も下野本人以外の要因が大きいのですが・・・。
まずソロ、これは感心しませんでした。バリトンは版が違うのか、と感じたほどイントネーションやドイツ語に違和感がありました。テノールはほとんど聴こえませんし、ソプラノは最後が苦しかったですね。
全部で6公演の5日目。4日連続で演奏した後1日置いての今日です。ハードといえばハードですが、ややガッカリです。
合唱。確かに音量も技術もプロだけのことはあります。しかし私の耳には、いかにも力で押し切った印象が残りました。
第9にはもっと深い影の部分があるのではないか。Seid umschlugen, Millionen! の部分こそ第9の肝であり、人類の悲しみや祈りが篭められているッ、と考える私には、踏み込みが甘く、心の底から感じているものが不足しているように聴こえてしまいました。技術だけではどうにもならない。明るく、健康的過ぎるのです。
それは他ならぬ下野の指揮についても言えること。もちろん38歳の下野くんにそれを求めようという気持はありません。
上手く表現できないけれど、今回の第9は、この直後から最後の弦楽四重奏曲群を書き綴っていく最晩年に踏み込みつつある作曲家の作品のようには聴こえてこなかった。そう、確かに第8交響曲の次の交響曲。従って、「第9」というより「第8.5」交響曲という印象。
全てが太陽の下に晒され、まるで全裸にされて内視鏡で全ての臓器をチェックされているような開放感と恥ずかしさ。検査の結果は健康そのもの、血液サラサラの第9。そう言ったら判ってもらえるかなぁ。
最初に複雑な感想、と言ったのはそのことで、私が第9に期待しているのは、もっと暗く、苦悩に悶え、それでも何とか希望を探そうとする姿。それがきれいになくなっていました。
第9は特別な作品で、古来様々な伝統的演奏が繰り返されてきました。大元のヨーロッパ自身がこれに反発し、何とか「伝統」の足枷を外そうと、ピリオド楽器や古い楽器奏法などを持ち込み、理屈を捏ねまわして伝統を破壊してきました。
ところが38歳の若手指揮者は、そんなまだるっこしい手段を選ばず、現代の楽器と古来の楽譜からだけで、アッサリと古い「しきたり」を凌駕してしまった。西洋クラシックの中原から遠く離れた極東という「地の利」もあったも知れません。
しかし作品が生まれたままの姿で晒されてみると、ヤッパリ失われたものの大きさ、大量に施されてきた解釈が無くなったことの寂しさを感ずるのも事実。要は、私がそれだけ「おじん」になった、ということであり、今や古い世代への仲間入りを果たした、ってことなんですよね。
とは言え、私の下野賛に変わりがないことだけは、付け加えておかなくちゃ。
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