読売日響・第515回定期演奏会

昨日は雨の中、サントリーホールで読響の5月定期を聴いてきました。正指揮者の称号が今シーズン一杯で切れ、来年4月以降は首席客演指揮者に就任する下野竜也の指揮。
プログラムは日本初演の作品を含む、如何にも下野ならではの拘った内容。プログラム・ノートによれば「ツウ好みの一晩」ということになります。拘りの結果は以下。

ライマン/管弦楽のための7つの断章~ロベルト・シューマンを追悼して~(日本初演)
シューマン/ヴァイオリン協奏曲
     ~休憩~
シューマン/交響曲第2番
 指揮/下野竜也
 ヴァイオリン/三浦文彰
 コンサートマスター/小森谷巧
 フォアシュピーラー/江口有香

一目見て判るように、ローベルト・シューマンに捧げる夕べ、とでも言いましょうか。プログラムには明記されていませんが、下野の拘りシューマン鑑賞会の趣。あれ、シューマンのアニヴァーサリーって一昨年だったよなぁ。何で今頃シューマン? だから下野なんだよ。ということでしょうかね。
シューマンを特集するにしても、マンフレッド序曲/ピアノ協奏曲/交響曲第3番ではないのが、これまた如何にも下野。シューマンの3曲ある協奏曲で一番演奏されないのがヴァイオリン協奏曲でしょうし、4つの交響曲で最も地味なのが2番。冒頭は更に捻ってシューマンを引用した現代モノ。
私のような天邪鬼には打って付けのプログラムですが、一般的にはどうなんでしょう? 今回は止めておこう、と考えた定期会員も少なからずいたのじゃないでしょうか。

さすがに不味い、と思ったか事前に下野によるプレトーク。内容はライマン作品の紹介と、下野のシューマン感がテーマでした。

ステージをセットしなおして楽員登場。あれれ、変だぞ。
スクロヴァチェフスキ以来の弦楽配置を変更し、この日はチェロが右端に座るパターン。先々代アルブレヒトが用いていた配置で、今回のプログラムもアルブレヒト好みのもの。下野としては先輩に敬意を表しての配置だったのでしょうか。質問を受け付けてくれれば、個人的には真っ先に聞きたいポイントでした。

登場した楽員にも、あれれ。先に賑々しく退団した生沼氏がヴィオラ・トップに座ります。ま、良くあることで別に驚くほどのことではありませんが、コンマスの隣に江口が座ったのには驚きました。日本フィルの定期と見間違えたくらい。すわ読響得意の引き抜きか、と思ってプログラムをひっくり返してみましたが、何も書いてありません。ま、通常のゲストということで理解しておきましょう。

さて冒頭のライマン。実は今年から来年にかけて日生劇場が開館50周年を記念してライマンの歌劇を2作上演することになっていて、指揮を受持つ下野がライマン作品を調べていて遭遇した由。
下野が「ライマンを通してシューマンの魔力へと取り込まれてしまった」作品。日本初演ですからもちろん耳にするのは初めてですし、レコードも経験なし、楽譜も見たことはありません。私も10年前ならショットからスコアを取り寄せて予習したでしょうが、今ではそんな気力も興味も沸きません。
下野氏には申し訳ないけれど、実際に聴いてみてもほとんど感興は起きませんでした。ライマンのオペラ、と言ってもチョッと引けてしまいます。私にとっては逆効果だったかも。

全体は通して演奏される7つの断章。断章Ⅲで、シューマンが自殺を図る直前に作曲した「最後の楽想による幻覚の変奏曲」(WoO24)のテーマが引用されるという仕掛けです。(この滅多に演奏されないピアノ曲は、プレトークでスピーカーを通して紹介されました)
プログラムには譜例が掲載されていました(下野氏はフラットが二つ印刷漏れ、という指摘も)が、何のことはない、これは次のヴァイオリン協奏曲第2楽章でヴァイオリン・ソロが弾き出す音形と全く同じもの(調性も同じ)。こういうところに下野の拘りの徹底振りが表れていますね。

2曲目のヴァイオリン協奏曲も、恐らく私にとっては「初演」だったかも知れません。もちろんレコード(シェリング盤)で聴いていましたし、1937年に初めて印刷されたショット版も手元にあります。

今回改めて聴きなおしてみて、かつてヨアヒム、クララ、ブラームスが価値を認めなかったことが不思議でなりません。
それでもヨアヒムの場合は理解できます。第一に聴かせどころのカデンツァが無いし、演奏が結構難しい割には聴き映えがしない。客席の喝采を受けにくい曲想であることは確かです。
不可解なのはクララとブラームスの態度。当時の音楽趣味が現在とはかなり隔たったものだ、とでも考えるしかないでしょう。

作品で特に魅力的なのは第2楽章。ここはチェロ・ソロ(今回は嶺田健のソロ)との絡みがあり、シンコペーションによる打点の暈しが如何にもシューマン。ほとんどリートの世界で、WoO24にも共通する「幻覚」(ドイツ語では Geistervariationen 、昔は宗教的変奏曲と訳していましたっけ)が却って新鮮に聴こえてくるのでした。

この協奏曲をレパートリーにしているヴァイオリニストは決して多くは無いでしょう。三浦ジュニアも最初は違和感があったようですが、ヴェルニコフのレッスンを受ける内に理解が深まったのだとか。既にミュンヘンで演奏した経験があるそうです。
第1楽章展開部から再現部に移行するパッセージ(第2主題の変奏でもありましょう)の丁寧な意味付けは特に心に残りましたし、第3楽章のテンポが絶妙。このテンポは三浦のものか下野のものかは判りませんが、ベートーヴェンでもメンデルスゾーンでもなく、もちろんブラームスとも違うシューマン独特の味わいでしょう。
また第2楽章を聴いていて、これがベートーヴェンの三重協奏曲とブラームスの二重協奏曲の橋渡しになっている様にも感じられました。シューマンを封印したブラームスが、実は頭の片隅で師を意識していたのかも知れません。

ヨアヒムならずともシューマンを弾いた後は腕がムズムズするのは仕方ないのでしょうか。彼の名刺代わりの一曲、パガニーニのネル・コル・ピウがアンコールされ、会場は大いに沸きます。前回横浜でチャイコフスキーを弾いた時にも取り上げたアンコール曲。

メインの交響曲は、如何にも下野らしく元気の良いシューマン。精神を病んだ巨匠のくすんだ響きはほとんど感じられず、極限まで突き詰めた快速、豪快なシューマン。
一般的にシューマンのオーケストレーションは問題が多く、「鳴らない」というのが定説でした。今回の演奏はむしろ「鳴り過ぎ」。時代と共にシューマンへの評価、演奏スタイルも変わってきたな、と実感されたコンサートでした。

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