ウィーン国立歌劇場公演「レオノーレ」

ウィーン国立歌劇場のライブ・ストリーミング、2月最初の放映はベートーヴェンの「レオノーレ」です。通常上演される歌劇「フィデリオ」の初稿版で、今年がベートーヴェンの生誕250年に当たっていることからの特別な機会と言えましょう。このチャンスを逃さないよう注意を喚起しておきます。
シュターツオパーのホームページによれば、ベートーヴェンの唯一のオペラ「フィデリオ」には3回の世界初演があり、最初の版は1805年にアン・デア・ウィーン劇場で初めて演奏され、第2のものがほぼ1年後に、そして現在「フィデリオ」として定着している第3の版が1814年にケルントナートーア劇場の宮廷オペラにより初演されました。第3版が、現在リングにある国立歌劇場で最初から上演されてきた版です。

今回の上演は「フィデリオ」の最初の版、即ち「レオノーレ」のウィーン国立歌劇場における初演となります。現行の「フィデリオ」は5月に上演され、これもライブ・ビューイングで放映される予定ですから、オペラ・ファンには違いが判る嬉しいシーズンになることは間違いありません。
今回の舞台は新演出によるプレミエ公演、2月1・5・8・11・14日の5日間に亘って公演され、放映されるのは正に初日の模様。ウィーンに出掛けなくても自宅で楽しめるのですから、有難い時代になったと感慨も一入です。キャストは以下の通りでした。

レオノーレ/ジェニファー・デイヴィス Jennifer Davis
レオノーレ(演技)/カトリン・レーヴァー Katrin Rover
フロレスタン/ベンジャミン・ブランズ Benjamin Bruns
ロッコ/ファルク・シュトラックマン Falk Struckmann
ピツァロ/トーマス・ヨハネス・マイヤー Thomas Johannes Mayer
ドン・フェルナンド/サミュエル・ハッセルホーン Samuel Hasselhorn
マルツェリーネ/チェン・レイス Chen Reiss
ヤキーノ/イエルク・シュナイダー Jorg Schneider
囚人1/オレグ・ザリツキー Oleg Zalytskiy
囚人2/パナヨティス・プラツォス Panajotis Pratsos
指揮/トマーシュ・ネトピル Tomas Netpil
演出/アメリー・ニールマイヤー Amelie Niermeyer
台本脚色/モーリッツ・リンケ Moritz Rinke
舞台/アレクサンダー・ミュラー・エルモー Alexander Muller-Elmau
衣装/アネリーズ・ヴァンレール Annelies Vanlaere
照明/ゲリット・ユルダ Gerrit Jurda
振付/トーマス・ヴィルヘルム Thomas Wilhelm
ドラマトゥルグ/イヴォンヌ・ゲバウアー Yvonne Gebauer
演出助手/ヴェロニカ・ゼーデルマイヤー Veronika Sedelmaier
舞台美術助手/アンナ・シェットル Anna Schottl
衣装助手/ステファニー・トゥーン・ホーエンシュタイン Stephanie Thun-Hohenstein

「レオノーレ」初稿と「フィデリオ」の違いは、先ずは幕割です。当時のオペラは番号オペラで、レオノーレは全3幕18曲(第1幕6曲、第2幕6曲、第3幕6曲)であるのに対し、フィデリオは全2幕16曲(第1幕10曲、第2幕6曲)で構成されています。基本的にはフィデリオの第1幕が二つの幕に分割されていると見てよいでしょう。レオノーレの第1幕は6曲で構成され、フィデリオでは第5曲となるマルツェリーナ、レオノーレ、ロッコの三重唱がレオノーレでは第6曲となり、ここまでが第1幕です。
第2幕の開始はピツァロが入場してくるマーチから。この行進曲はフィデリオでは第6曲、レオノーレでは第7曲ですが、音楽は全く別のものになっています。第2幕は第7曲から第12曲まで。第2幕の終わりはフィデリオ第1幕の最後と同じですが、フィデリオとは違って壮大なオーケストラの後奏で締め括られます。そして第3幕は第13曲から第18曲までで、これはフィデリオ第3幕とほぼ重なります。
ただし今回の上演では第1幕と第2幕が続けて演奏されるため、3幕仕立てになっていることが判り難くなってしまいました。休憩は第2幕と第3幕の間に20分。

二つの稿の違い、続いては「フィデリオ」では「レオノーレ」にあるいくつかの楽曲がカットされたり、改訂によって短縮されたナンバーが多いことが挙げられるでしょう。
レオノーレの第1幕第3曲はマルツェリーナ、ヤキーノ、ロッコによる三重唱曲「男はじきに所帯を持つ」ですが、フィデリオへの改訂ではカットされました。またレオノーレの第2幕には第10曲としてマルツェリーナとレオノーレの二重唱「幸せな結婚生活を送るには」が歌われますが、これもフィデリオではカットされています。つまりレオノーレがフィデリオに改訂されるに際して2曲が削除されたことになります。因みに第10曲の二重唱はヴァイオリンとチェロのソロがオブリガートで加わり、なかなかの佳曲。私は初めて聴いたベートーヴェンの音楽で、これが聴ける・見れるだけでも一聴の価値はあると思います。
このほか「フィデリオ」はマルツェリーナとヤキーのデュエットで始まり、マルツェリーナのアリアが続きますが、「レオノーレ」ではこの2曲は順序が逆になっていたり、マーチが全く別の音楽に書き換えられているなど細かい部分でも相違があることに気付かれるでしょう。
作品中唯一のレオノーレのアリア「悪者よ、どこへ急ぐ」も、第3幕冒頭のフロレスタンのアリア「人生の美しい春に」も、現行「フィデリオ」のそれとはかなり違っており、ほとんど別の曲と言っても良いほどです。

序曲は、現在「レオノーレ」序曲第2番として演奏されているもの。因みに第3番として知られるものは最初の改訂に際して1806年に演奏されたものですし、第1番とされているものはベートーヴェンの生前中には演奏されず、そもそも「レオノーレ」の序曲であったかも疑わしいとされているそうです。
今回の演出では、この序曲の間に舞台上で紗幕を通して寸劇が演じられます。ここでフロレスタンが何者かによって拉致されたこと、レオノーレが男装するにあたって分身のような存在を伴うことが示されます。もちろん初演の舞台を踏襲したものではなく、あくまでも今回の新演出によるアイディアでしょう。

その演出を担当するニーマイヤーは、ボンで生まれた女性演出家。レオノーレ役として歌手の他に演技者を並立するのが斬新な試みで、レオノーレの揺れ動く心と対立する内面、自問自答する主人公を分身を介して表現しているのだろうと見ました。二人のレオノーレの会話なども挿入されていて、この部分はリンケという人が脚色したものと思われます。
舞台は16世紀末のセヴィリアではなく、現代の刑務所の広間に置き換えられています。全3幕とも同じ舞台で、刑務所の一日という設定。地下牢に閉じ込められているはずのフロレスタンは、第3幕では広間に連れ出されてきます。その第3幕の冒頭、フロレスタンのアリアの中では、序曲の途中で演じられた夫婦の幸福な場面を回想する映像も流されます。

合唱団も囚人たち、ピツァロの部下、終幕での民衆といくつもの役を担当し、その都度衣装が目まぐるしく変わります。特に終幕での衣装は場末のキャバレーを連想させるようで、何とも違和感を覚えてしまいました。
違和感と言えば、夫の救出劇の最中にレオノーレがピツァロに腹部を刺されるという設定で、結局最後にはレオノーレが死んでしまうという結末には大きな疑問符を付けておきましょう。
歌手デイヴィスが歌うレオノーレと役者レーヴァーが演ずるレオノーレは、第3幕第16曲(救出劇)までは同じ衣装で寄り添うように登場するのですが、第17曲レオノーレとフロレスタンの歓喜の二重唱からは別の衣裳に替ります。歌手レオノーレは出血に喘ぎ、役者レオノーレは夫フロレスタンと歓喜のダンスを踊って見せたりもする。ここで聴衆は二人のレオノーレ、現実のレオノーレと「愛」の化身としてのレオノーレが分離する姿を見せられるのです。「レオノーレが死んでも、愛は永遠。国家や世界よりも強い」というメッセージは、ベートーヴェンの意図以上にニールマイヤーの主張が強調されていると感じました。

全員がレオノーレの愛を称賛するうちにレオノーレ本人は死んでゆく。そのために、フィナーレの大合唱ではレオノーレのパートは歌われない。演出のために音楽を犠牲にするという手法は、やり過ぎじゃないでしょうか。
ニールマイヤー演出には、一人の犠牲によって万人を救う、というメッセージが込められているようにも思うのですが、必ずしも意図が明確には伝わって来ません。私には、そもそもウィーン国立歌劇場における「レオノーレ」初演、ベートーヴェンの第1稿の復活上演という場に相応しい演出とは思えませんでした。
予想した通り、終演後のカーテンコールではニールマイヤーに強烈なブーイングが浴びせられていました。私も同感ですね。

歌手についても触れておくと、レオノーレを歌ったジェニファー・デイヴィスはアイルランドのソプラノ。フロレスタンのブランズはハノーヴァー生まれのテノールで、2010年からウィーン国立歌劇場のメンバーを務めています。主にリリック・テナーの役を歌ってきた人で、大晦日の「こうもり」でアルフレード役を聴いたばかり。
ロッコのシュトラックマンは、ルツェルンのフィデリオ(アバド指揮)でも同役を歌ったドイツのバリトンで、ウィーン国立歌劇場の宮廷歌手でもあります。ピツァロのマイヤーもドイツのバリトンで、新国立劇場でヴォツェック、アラベラのマンドリカ、オランダ人を歌っていましたし、6月に東京文化会館で上演される「マイスタージンガー」でもハンス・ザックスを歌う予定ですから、日本でもお馴染みの歌手です。

演出には問題があるものの、歌手たちはみな立派な歌唱でウィーン国立歌劇場の「レオノーレ」初演をやり遂げました。演出に目を瞑れば、ベートーヴェンが改訂の過程で余分なものを切り落とし、夫婦愛というテーマに絞ってコンパクトに纏めあげた手腕が見えてきます。レオノーレ初演が失敗に終わった理由は第1幕が長過ぎたとか、客席にフランスの軍人が多くテーマが受けなかったとか様々な説がありますが、この機会に聴き手自らが判断してみては如何でしょう。

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