ウィーン国立歌劇場アーカイヴ(44)
今日からは、ウィーン国立歌劇場が順次発表しているアーカイヴ配信の第5弾に相当するシリーズを順に紹介していきましょう。第5弾は6月一杯をカバーし、恐らく今回の新型コロナ禍による閉鎖中の特別編成も最後となると思われます。
現地ウィーンでは6月2日にリヒャルト・シュトラウスの「影のない女」が配信されていましたが、オッタヴァ・テレビではこれをカット、第5シリーズの最初としてトーマス・アデスの新作「テンペスト」が配信中です。新作と言っても2016年6月24日の公演の模様で、初演から数えても12年は経過していました。奇しくもプロスペローがミラノ大公の座を追われてからと同じ年月になります。
テンペストと言えばもちろんシェークスピアの原作で、オペラ化に当たってはメレディス・オークス Meredith Oakes が台本を担当。ストーリーや登場人物は原作を忠実に追いながらも、台詞などは殆ど新しく書き起こしたもののようですね。
そもそもシェークスピアの戯曲でオペラ化されていないものは無いと言って良いほどで、テンペストも例外じゃありません。しかしテンペストのオペラで直ぐに思い当たる作品を思い浮かべられる人は極めて稀じゃないでしょうか。器楽作品としては、最初に思い当たるのがベートーヴェンの「テンペスト・ソナタ」。尤もこれは弟子のシントラーがベートーヴェンの言葉として伝えられてきたもので、恐らくは眉唾物でしょう。実際にテンペストを題材としたものではチャイコフスキーやシベリウスが有名です。
オペラのテンペストは、文献に当たれば50人ほどの作曲家の名前が記録されていますが、普通の音楽ファンで名前と音楽が一致するのはヘンリー・パーセルとフランク・マルタンくらいのもの。私は実際に二人のオペラを聴いたことはありませんが、ウィーンの常連氏たちにとってはマルタンは懐かしい存在かも知れませんね。
マルタンの歌劇「嵐」は、このウィーン国立歌劇場で1956年に初演された作品で、エーベルハルト・ヴェヒター、アントン・デルモータ、クリスタ・ルートヴィッヒなど当時の名歌手たちが参加していました。ですからウィーンのオールド・ファンにとって「テンペスト」と言えばマルタンを連想する方が多いのでは、と思われます。
さて今回の「テンペスト」は、イギリス作曲界の大御所トーマス・アデスがコヴェント・ガーデンにあるロイヤル・オペラ・ハウスの委嘱に応じたもので、2004年2月10日に同劇場で初演。アデスとしては二つ目のオペラで、ここ20年間で書かれたオペラの最高傑作との評価が定着しているようです。本公演はニューヨークのメトロポリタン歌劇場などとの共同制作とのことで、つい先ごろメットのアーカイヴ・シリーズでも配信されていました。
私も所々摘まみ食いするような形で聴きましたが、冒頭で確かデヴォラ・ヴォイトが、アデスをブリテンの再来と紹介していましたっけ。
日本では未だ初演されていないはずで、恐らく多くの方が初めて体験するオペラでしょう。どうしても長々と紹介することになりますが、最初に配役を・・・。
トーマス・アデス/歌劇「テンペスト」(2016年6月24日公演)
プロスペロー(前ミラノ大公、ハイ・バリトン)/エイドリアン・エレート Adrian Erod
アリエル(空気の精ハイ・ソプラノ)/オードリー・ルーナ Audrey Luna
カリバン(島の怪獣、テノール)/トーマス・エベンシュタイン Thomas Ebenstein
ミランダ(プロスペローの娘、メゾ・ソプラノ)/ステファニー・ハウツィール Stephanie Houtzeel
ファーディナンド(ミラノ王の息子、テノール)/パーヴェル・コルガティン Pavel Kolgatin
ナポリ王(テノール)/ヘルベルト・リッパート Herbert Lippert
アントニオ(プロスペローの弟で現ミラノ大公、テノール)/ジェイソン・ブリッジス Jason Bridges
ステファーノ(ナポリ王の執事、バス・バリトン)/ダン・パウル・ドゥミトレスクー Dan Paul Dumitrescu
トリンキュロ(ナポリ王の道化師、カウンターテナー)/デヴィッド・ダニエルス David Daniels
セバスチャン(ミラノ王の弟、バリトン)/デヴィッド・パーシャル David Pershall
ゴンザーロ(ナポリ王の顧問、バス・バリトン)/ソリン・コリバン Sorin Coliban
指揮/トーマス・アデス Thomas Ades
演出/ロベール・ルパージュ Robert Lepage
舞台/ジャスミン・カトゥダル Jasmine Catudal
衣装/キム・バレット Kym Barrett
照明/ミシェル・ボーリュー Michel Beaulieu
映像/デヴィッド・ルクレーク David Leclerc
振付/クリスタル・パイト Crystal Pite
タイトルロールはプロスペローで、人間と非人間が登場。プロスペローは魔術を研究・会得しているため、プロスペロー本人や仲間で手下のアリエルは人間には見えないという設定になっていることに注意しましょう。人間と非人間の中間に位置するのが、島に住む怪獣のカリバンで、例えればワーグナーの「ラインの黄金」におけるローゲ的な存在と見ればよいかも。オペラの最後がカリバンのモノローグで終わるのが、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」を連想させたりもします。
もちろん歌唱は英語で、今回の配信では残念ながら日本語字幕は無く、ドイツ語と英語のみ。一般的には英語字幕を選択するのがお勧めで、シェークスピアの原作、少なくとも荒筋だけでも押さえておけば鑑賞には差し支えありません。
全3幕で構成され、演奏時間は順に約37分、約40分、約46分。全体で2時間強ほど掛かり、第2幕と第3幕の間に休憩が入ります。尤も配信では休憩時間にウィーン観光のコマーシャルが入り、放送としては2時間半でした。
オーケストラは3管編成が基本で、楽譜はフェイバー社から出版。スコアは nkoda で閲覧可能で、譜面好きのファンは一度通して見て、次はスコアを参照しながら見直すのも良いでしょう。私もその積りです。
このスコアを見ながら、各幕の構成と登場人物を紹介しておきましょうか。人間関係に付いては配役表を参考にして下さい。
第1幕
第1場 オーケストラのみによる嵐を描いた前奏曲。背景にミラノ宮廷と難破船、舞台裏の合唱
第2場 ミランダとプロスペロー
第3場 アリエルとプロスペロー
第4場 カリバンとプロスペロー(ミランダは眠っている)
第5場 アリエルとプロスペロー(ミランダは眠っている)
第6場 ファーディナンドとミランダ(プロスペローとアリエルは二人には見えない)
第2幕
第1場 宮廷の人々の合唱、ステファーノ、トリンキュロ
第2場 宮廷人とアリエル、カリバン
第3場 カリバン、ステファーノ、トリンキュロ
第4場 ファーディナンド、後にミランダが加わる
第3幕
ミステリアスな前奏曲に続いて第1場 カリバン、トリンキュロ、ステファーノ 3人とも酔っている
第2場 宮廷人、アリエル、プロスペロー
第3場 ミランダ、ファーディナンド、プロスペロー
ここで仮面劇が挟まれ、アリエル、ファーディナンド、プロスペロー、カリバン、トリンキュロ、ステファーノ、ミランダなどが入れ替わり登場。
第4場 登場順に、プロスペロー、アントニオ、ナポリ王、ゴンザーロ、ファーディナンド、ミランダ、セバスチャン、宮廷人たち(合唱)、アリエル、トリンキュロ、ステファーノ。要するにカリバンを除く全員が歌い、オペラとしてもクライマックスと言えるでしょう。
第5場 カリバン、後にアリエル
現代作品だからと言って毛嫌いする必要はありません。ストーリーも音楽も判り易く、伝統的なオペラの手法が盛り込まれています。短いながらも主要な登場人物にはアリアが用意されていますし、愛の二重唱(第2幕第4場。ミランダとファーディナンド)、ブッフォ風の三重唱(第2幕第3場。トリンキュロ、ステファーノ、カリバン)も出てきます。
第2幕第1場では難破した人々の合唱も置かれていますし、第3幕の仮面劇のシーンではバレエも登場。第3幕第4場は、正にモーツァルト風の7重唱さえ楽しめるという仕掛けになっているのですね。
演出の視点で言えば、ミラノの旧スカラ座が背景に使用されていることに注目。第1幕は色褪せたスカラ座が描かれ、プロスペローが失脚させられたことを暗示しています。対して第3幕ではスカラ座特有の赤が復活し、客席で親子3人(ナポリ王、ファーディナンド、ミランダ)の再開劇を見るような設定になっているのにも納得。
最後はミラノ公国とナポリ公国が血縁的にも結ばれることにより和睦。そして兄プロスペローと、その復讐の対象でもあった弟アントニオとも互いに許すことに拠っての和解成立でフィナーレ。そして最後はカリバンのモノローグで意味ありげに、静かに閉じられるのでした。
歌手たちはウィーン国立歌劇場のアンサンブル・メンバーを中心にしたキャストで、超絶高音を駆使し、身体的にも身軽さが要求される難役アリエルのオードリー・ルーナだけがメトロポリタン歌劇場と共通しています。メットではキーンリーサイドがプロスペローでしたが、こちらはエイドリアン・エレート。トリンキュロは、メットではイェスティン・デーヴィスでしたが、ウィーンはデヴィッド・ダニエルス。
ハウツィールのミランダとナポリ王のリッパートは、前回紹介した「アラベラ」のアデライーデとマッテオでも共演していた仲ですしね。
客席の反応も極めて好意的だったようで、カーテンコールでは多くのファンがピット前に詰め掛けていました。
この映像は5日早朝までの48時間視聴可能ですから、オペラ・オタクのみならずシェークスピア好きの演劇ファンも一度は見ておくようお勧めしておきます。
「2016年6月24日の公演」とありますが,2015年ではないでしょうか?
knakna さま、ご指摘ありがとうございます。
私が主に視聴しているのはオッタヴァ・テレビを介してですが、オッタヴァのサイトでは2016年と表記されていたのでそのまま記載したものです。また念のためウィーン国立歌劇場の Live at Home のホームページも確認したところ、やはり2016年となっております。
これとは別にウィーンの公演記録を調べたところ、ご指摘の通り2015年10月18日が「テンペスト」のウィーン初演であることは間違いありません。ただ、この時はプロスペローを歌ったのがクリストファー・モールトマンという方のようで、今回配信された公演ではエレートが歌っていることから、やはり2016年の再演の際の記録と見るのが自然ではないでしょうか。
ご指摘のお陰で古い記録を検索し、いろいろと勉強になりました。2015年がダブルキャストだったことも考えられますし、再度資料に当たってみたいと思います。ありがとうございました。
メリーウイロウ
単純なミスで,2015年6月24日の公演でしょう。放映の最後に次回のライブストリーミングの予告が出ました。次回は,「リゴレット」,2015年9月4日,とありました。
シュターツ・オパーの Archive の次のアドレスを見てください。
https://archiv.wiener-staatsoper.at/search/work/914/production/1449
ライブストリーミングの存在はすでに知っていましたが,有料なので,代金を支払うまでの気持ちになれず,これまでスルーしていました。今回のコロナ騒動で,無料で見ることができ,圧倒されています。9月以降に公演が再開されたら,きちんを料金を払おうかな,と思っています。でも,ottava ではなく,ウィーンの live at home の方に払うことになりそうです。
(3月にウィーンに行く予定でしたが,キャンセルせざるをえませんでした。購入済みのチケットは,きちんと払い戻しをしていただきました。若干,為替差損が発生しましたが……。)