英国競馬1959(3)

さて1959年のプレミエ・クラシックであるダービーに行きましょう。
2000ギニーの勝馬タブーンはマイラー系ですから、最初からダービーには縁がありません。2000ギニー入着馬の中にもこれといったダービー候補は無く、最初から本命不在の極めて絞り難いダービーの様相を呈していました。
そんな中で押し出されるように1番人気になったのは、フランスから挑戦してきたシャンタン Shantung でした。
シャンタンは、フランスでギイ・ド・ロッシルド(ロスチャイルド)男爵が生産した馬。ワトソン調教師の管理馬です。
2歳の時は1戦1勝、3歳初戦のサン=クルーと、ロンシャンの2400メートルに勝って無敗、厩舎としても期待の高かった馬です。これがエプサム遠征を決定、実績以上に人気を集めていた感がありました。シャンタンは結局11対2の本命。
迎え撃つ英国勢では、トライアルを3連勝したパーシャ Parthia が注目されていました。
パーシャは大きな馬で奥手のタイプ。2歳時は漸く10月になってデビューし、2戦目でデューハースト・ステークスに3着して大器の片鱗を覗かせていました。
3歳緒戦はハースト・パーク競馬場(現在は存在しません)のホワイト・ローズ・ステークス(10ハロン)。これは大楽勝しましたが、距離が適さないということで2000ギニーはパス、次走にチェスター競馬場のディー・ステークス(1マイル半)を選びます。
これを勝つには勝ったのですが、ゴール前で先行馬を捉えるのがやっと。このレースを評した当時の高名な競馬評論家は、“もしパーシャがダービーに勝ったとしたら、私は牧師になるよ”と言ったほど(坊主になる、くらいの意味でしょうか)。
パーシャは更にリングフィールド競馬場のダービー・トライアル(1マイル半)も連勝しましたが、ここでも二線級とそこそこの勝負。結局ダービーではハリー・カーという名騎手が騎乗したにも拘らず、10対1の中穴評価でした。
さて本番。レースには大きなアクシデントがありました。スタートして2ハロン、本命シャンタンの進路に突然他馬が侵入。パルメール騎手は事故を避けるべく処置したのですが、馬が故障したと思い、一旦シャンタンを最後方に下げてしまいます。しかし実際には馬は無傷、そこから取り直すように追い上げましたが、タテナム・コーナーでは未だどん尻の馬から4馬身も離されている始末。
そこから直線だけで他馬をごぼう抜きに追い上げましたが、ゴールでは何とか3着に食い込むのが精一杯。もしアクシデントがなければ、勝ち負けの勝負になっていたでしょう。
ということで、幸運も手伝いながらダービー馬になったのはパーシャ。終始好位を追走し、直線では早めに抜け出したフィダルゴ Fidalgo をキッチリ捉えて1馬身半差の優勝。更に1馬身半で不運なシャンタンが続き、4着は最後の一歩でシャンタンに抜かれたセント・クレスピンⅢ世。
パーシャのダービー制覇は観衆から大歓声で迎えられました。というのも、馬主で同馬の生産者でもあるサー・ハンフリー・ド・トラフォードは、前年のダービーに大本命を擁しながら直前で回避せざるを得なかった不幸があったから。
それはアルサイド Alcide という馬で、トライアルに圧勝してダービーは断然と言われたのですが、直前に何者かによって脚部を傷つけられてしまったのです。厩舎の警備体制にも問題があったのですが、50年前の英国にはまだこうした事件が発生していたのですね。
ダービー上位入線馬のその後は次回セントレジャーで紹介するとして、ここでは1番人気で不運な敗戦を味わったシャンタンのその後だけ記しておきます。
フランスに帰ったシャンタンは、サン=クルー大賞典に出走、フランス・ダービー馬のエルバジェ Herbager と対決しましたが、頭差で敗北。秋の復活を期しましたが、脚部難を発症、そのまま種牡馬として引退しました。供用地はイギリス、ノーフォーク州のシャドウェル・スタッドです。

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