英国競馬1959(4)

1959年の最後のクラシック・レース、セントレジャーです。
現在でこそセントレジャーはその長距離が嫌われ、往年の栄光は失われてしまいましたが、まだ50年前はそのステイタスは健在。有力な3歳ステイヤーはセントレジャーを目指したものです。
ダービー馬パーシャ Parthia も、当然ながらセントレジャーを目標にしました。トライアルからダービーまで4つのレースを使い詰め、エプサムの厳しいレースを制したこともあって、やや長めの休養を取ります。
当初はヨーク競馬場のグレート・ヴォルティジュー・ステークスをトライアルに使う予定でしたが、レースの二日前に風邪を発症。結局はセントレジャーに直行することになりました。
一方ダービー2着に好走したフィダルゴ Fidalgo は、3週間後のアイルランド・ダービーに挑戦し、他馬を問題にせず4馬身差で圧勝します。
現在でこそアイルランド・ダービーはヨーロッパ競馬の中に確たる地位を築いていますが、1959年当時は賞金も遥かに安く、アイルランドの一地方競馬に過ぎませんでした。
当時のアイルランドは生産馬のレヴェルも低く、イギリスの二線級競走馬でも立派に勝負になる状況だったのです。ダービー2着のフィダルゴもイギリスからの遠征、実に美味しい勝利だったはずです。
イギリスに戻ったフィダルゴは、ほとんど間を空けずにサンダウン競馬場のエクリプス・ステークスに出走します。
しかしここはレース間隔が詰まっていたこと、距離の10ハロンがこの馬向きでなかったことから、5着の凡走。エクリプスの勝馬については次の機会に譲りましょう。
フィダルゴ、最終目標のセントレジャーには無事に駒を進めることになります。
さてセントレジャー、オークス組からも有力な1頭が参戦を決めます。オークス馬プチット・エトワール Petite Etoile は長距離向きとは言えず、当初からセントレジャーは目標にしていません。
そう、オークスで1番人気になりながら、プチット・エトワールの瞬発力に屈したカンテロ Cantelo です。この馬は瞬発力にこそ欠けるものの、長い脚を持続して使え、速いペースに持ち込んでそのまま流れ込むタイプ。正にセントレジャー向きの牝馬と申せましょう。
オークス2着のカンテロは、このあとロイヤル・アスコットでリブルスデール・ステークスに楽勝、同じアスコットでキング・ジョージ6世クィーン・エリザベス・ステークスで古馬・牡馬と対決します。ここは敗れたものの4着は健闘。
カンテロはこの後9月まで休養、セントレジャー出走を公表して同じ開催のパーク・ヒル・ステークスにも出走してきました。これは3歳牝馬限定ながらセントレジャーと同じ距離で行われるレースで、セントレジャーには正に連闘を意味します。日本ではほとんど考えられないローテーションと言えましょう。
このレースではエドワード・ハイド騎手が騎乗しましたが、ペースがスローであったこと、騎手としては馬に過度の負担を掛けたくなかったことなどから、ゴール前でコリリア Collyria の急襲に遭って頭差で2着に敗退してしまいます。
本番はパーシャが1番人気に支持されていました。調整過程に不安があったものの、馬主サー・ハンフリー・ド・トラッフォード、調教師キャプテン・セシル・ボイド=ロシュフォールのコンビは前年のセントレジャーをアルサイド Alcide で制したという実績。当時ボイド=ロシュフォール師は王室一家の馬を調教していたという心情的な側面も影響していたかも知れません。
レースではパーシャは中段を進み、絶好の展開に持ち込みました。しかし3番手まで進出するのが精一杯、やはり順調でなかった調教の影響が出て4着に終わります。
順当に強さを発揮したのは牝馬カンテロ。前日の敗戦で100対7と人気は落としましたが、前走が良い調教になったのでしょう。トライアルと同じく主戦のハイド騎乗、ダービーとは逆に最後方から追い込んだフィダルゴを1馬身半抑えての快勝でした。
カンテロは「北」のチャールズ・エルジー師が管理する馬です。「北」(ヨークシャー調教)の馬が「北」の競馬場ドンカスターでのクラシック・レースに勝ったのは何と1874年のアポロジャイ Apology 以来。
その偉業が、一部ファンの罵声にかき消されてしまったのは真に残念なことでした。これは前日に大本命に支持されながらの惜敗が原因であることは申すまでもありません。
以上が今から50年前1959年、イギリスで行われたクラシック・レース物語です。
カンテロはこのあと凱旋門賞に向かう意向がありましたが、その後の調教で脚部難を発症、そのまま引退します。
ダービー馬パーシャもチャンピオン・ステークスが予定されていましたが、セントレジャーのレース中に怪我、3歳シーズンを終えます。
フィダルゴは、4歳として凱旋門賞を目標に現役続行が表明されましたが、これもまた古傷の脚部難が悪化、結果として種牡馬として引退することになります。
後日談になりますが、パーシャもフィダルゴも日本に種牡馬として輸入され、パーシャはフジノパーシア(天皇賞)などを、フィダルゴはコクサイプリンス(菊花賞)などの活躍馬を出しました。
古い競馬ファンは懐かしく思い出されるかもしれませんが、いずれも長距離での活躍が主だったことは記憶に留められてよいと思います。
この後は、古馬戦線と凱旋門賞についての話に続けましょう。

Pocket
LINEで送る

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください