英国競馬1959(5)
50年前の英国競馬、クラシック戦線は前回で終了しましたので、その他の大きなレースを振り返ります。出来るだけ簡潔に。
まず古馬の動向から行きましょう。
1959年の時点では、1年の競馬スケジュールの中に長距離レースが占める重要度はまだまだ大きいものがありました。その頂点に位置していたのが、アスコット・ゴールド・カップ(20ハロン)です。
シーズンの最初からゴールド・カップ馬として期待されていたのがアルサイド Alcide 。この馬についてはダービーで少し触れましたが、不運によりダービーを回避したものの、セントレジャーを圧勝してその実力は誰もが認めていました。1959年のダービー馬パーシャより力は上、という評価です。
4歳になったアルサイドは、初戦にニューマーケット競馬場のジョッキー・クラブ・カップ(1マイル半)を選びます。5対2の1番人気でしたが、シーズン初戦ということもあってかヴァカーム Vacarme の2着に終わります。
続くケンプトン競馬場のヴィクター・ワイルド・ステークス(1マイル半)は2着以下を20馬身ぶっちぎるレコード勝ち。更にハースト・パーク競馬場のウィンストン・チャーチル・ステークス(1マイル半)も楽勝で連勝します。
エプサムのコロネーション・カップは脚部難が出て欠場、調整過程に狂いが生じながらもアスコット・ゴールド・カップに出走してきました。
主戦騎手ハリー・カーは、腎臓結石の術後ということで痛みが残っており、体調不十分も手伝ってアルサイドはワラビーⅡ世 Wallaby Ⅱ に惜敗してしまいます。
勝ったワラビーは、フランスのワルドナー男爵の自家生産馬。前年のエプサム・ダービーで1番人気に支持されながらハード・リドン Hard Ridden の着外に敗れていました。
3歳時はフランスに帰って仏セントレジャーに勝ち、明けて4歳にはジャン・プラ賞に勝ち、フランス版ゴールドカップと言われるカドラン賞は2着惜敗。アスコットはアルサイドが万全でなかった幸運も手伝いましたが、パルメール騎乗で栄冠を勝ち取ったことになります。
(ワラビーも後年日本で種牡馬になり、コンチネンタル(有馬記念)、メジロムサシ(天皇賞)などの長距離での活躍馬を出しました)
さてゴールド・カップで明暗を分けたアルサイドとワラビーは、同じアスコットのキング・ジョージ6世クィーン・エリザベス・ステークス(1マイル半)で再対決します。
今回は万全の調教で臨んだアルサイド、最後方からのレースながら2着グラッドネス Gladness に2馬身の楽勝。その実力を見せ付けました。ワラビーは着外の完敗。
キング・ジョージには後にセントレジャーに勝つカンテロや、ドイツの強豪オルジーニ Orsini も出走していました。
このレースでも騎乗したカー騎手は、自宅に戻る途中に古傷の具合が悪くなり、そのまま病院に担ぎ込まれて長期(2週間)入院というエピソードも残っています。
アルサイドはキング・ジョージを最後に種牡馬として引退してしまいます。アルサイドは生涯で12戦8勝、僅かに4回だけ2着でしたが、そのいずれもが短頭差だったということが、この馬の強さを物語っていると思います。
さて1959年を締め括るに、もう1頭の名馬に触れなければなりません。それはセント・クレスピンⅢ世 Saint Crespin Ⅲ です。セント・クレスピンはダービー(4着)でも登場していましたね。
セント・クレスピンも、プチット・エトワール同様にアガ・カーン/アリ・カーン親子によって生産・所有された馬。フランスでアレック・ヘッドによって調教されていました。父はオリオール Aureole 、ダービー馬タルヤー Tulyar の半弟という良血です。
2歳時は僅か1戦ですが、重賞のインペリアル・プロデュース・ステークス(6ハロン)に勝って毛並みの良さを証明します。
3歳になったセント・クレスピン、緒戦ロンシャンのギッシュ賞(1950メートル)は快勝しましたが、ジャン・プラ賞(2000メートル)で初めて敗戦。イギリスに遠征したダービーでパーシャの4着に終わります。
これで終わればただの名血馬でしたが、続くサンダウン競馬場のエクリプス・ステークス(10ハロン)では同じくフランスから遠征してきたジャヴロ Javelot 、ヴィフ・アルジャン Vif Argent を破って優勝。この後は秋の大一番、凱旋門賞を目標に暫く休養をとることになります。
凱旋門賞(2400メートル)は大混戦、5頭が短頭差、短首差で雪崩れ込む激しいレースとなり、一旦はセント・クレスピンとミッドナイト・サンⅡ世の同着と発表されます。
しかしセント・クレスピンの騎手ジョージ・ムーアの抗議により、ミッドナイト・サンは2着降着、セント・クレスピンの単独優勝で確定することになりました。
3着は短頭差でル・ルー・ガルー Le Loup Garou 、4着短首差ミ・カリーナ Mi Carina 、5着短首差プリメラ Primera というのが最終着順です。
フランス・ダービー馬エルバジェ Herbager 、ワラビーなどが着外。
セント・クレスピンは4歳も現役を続行すべく調教を重ねていましたが、ある朝の調教中、落雷に拠って折れた木の枝が調教騎手を直撃して騎手は意識不明の重態に陥ってしまいます。
放馬したセント・クレスピンは驚いて逃げる途中、樹に激突して肩に大きな傷を負い、これが基で現役を引退することになるのです。
オーナーであるアリ・カーンは、1959年は2000ギニー(タブーン)、1000ギニー(プチット・エトワール)、オークス(プチット・エトワール)、エクリプス・ステークス(セント・クレスピン)、凱旋門賞(セント・クレスピン)と大レースを立て続けに制覇、1959年シーズンのイギリスのリーディング・オーナーの座を獲得します。
アリ・カーンは女性関係も派手で、常に社交界の花形でした。女優リタ・ヘイワースと一時期結婚していたと言えば、思い出される方も多いと思います。
名声の頂点に立ったアリ・カーン、この後不幸が襲うことになりますが、それはまた来年の話にとっておきましょう。
こうして種牡馬になったセント・クレスピンも、後年は日本でも供用されることになります。その時の購買価格3億円は当時でも大きな話題になりましたね。
持ち込み馬として活躍したタイテエム、日本での産駒エリモジョージなど、これまた天皇賞優勝馬のリストに名が連なっているのが面白いところ。
以上、長々と1959年を回顧してきました。一応ここで締めと致します。
まず古馬の動向から行きましょう。
1959年の時点では、1年の競馬スケジュールの中に長距離レースが占める重要度はまだまだ大きいものがありました。その頂点に位置していたのが、アスコット・ゴールド・カップ(20ハロン)です。
シーズンの最初からゴールド・カップ馬として期待されていたのがアルサイド Alcide 。この馬についてはダービーで少し触れましたが、不運によりダービーを回避したものの、セントレジャーを圧勝してその実力は誰もが認めていました。1959年のダービー馬パーシャより力は上、という評価です。
4歳になったアルサイドは、初戦にニューマーケット競馬場のジョッキー・クラブ・カップ(1マイル半)を選びます。5対2の1番人気でしたが、シーズン初戦ということもあってかヴァカーム Vacarme の2着に終わります。
続くケンプトン競馬場のヴィクター・ワイルド・ステークス(1マイル半)は2着以下を20馬身ぶっちぎるレコード勝ち。更にハースト・パーク競馬場のウィンストン・チャーチル・ステークス(1マイル半)も楽勝で連勝します。
エプサムのコロネーション・カップは脚部難が出て欠場、調整過程に狂いが生じながらもアスコット・ゴールド・カップに出走してきました。
主戦騎手ハリー・カーは、腎臓結石の術後ということで痛みが残っており、体調不十分も手伝ってアルサイドはワラビーⅡ世 Wallaby Ⅱ に惜敗してしまいます。
勝ったワラビーは、フランスのワルドナー男爵の自家生産馬。前年のエプサム・ダービーで1番人気に支持されながらハード・リドン Hard Ridden の着外に敗れていました。
3歳時はフランスに帰って仏セントレジャーに勝ち、明けて4歳にはジャン・プラ賞に勝ち、フランス版ゴールドカップと言われるカドラン賞は2着惜敗。アスコットはアルサイドが万全でなかった幸運も手伝いましたが、パルメール騎乗で栄冠を勝ち取ったことになります。
(ワラビーも後年日本で種牡馬になり、コンチネンタル(有馬記念)、メジロムサシ(天皇賞)などの長距離での活躍馬を出しました)
さてゴールド・カップで明暗を分けたアルサイドとワラビーは、同じアスコットのキング・ジョージ6世クィーン・エリザベス・ステークス(1マイル半)で再対決します。
今回は万全の調教で臨んだアルサイド、最後方からのレースながら2着グラッドネス Gladness に2馬身の楽勝。その実力を見せ付けました。ワラビーは着外の完敗。
キング・ジョージには後にセントレジャーに勝つカンテロや、ドイツの強豪オルジーニ Orsini も出走していました。
このレースでも騎乗したカー騎手は、自宅に戻る途中に古傷の具合が悪くなり、そのまま病院に担ぎ込まれて長期(2週間)入院というエピソードも残っています。
アルサイドはキング・ジョージを最後に種牡馬として引退してしまいます。アルサイドは生涯で12戦8勝、僅かに4回だけ2着でしたが、そのいずれもが短頭差だったということが、この馬の強さを物語っていると思います。
さて1959年を締め括るに、もう1頭の名馬に触れなければなりません。それはセント・クレスピンⅢ世 Saint Crespin Ⅲ です。セント・クレスピンはダービー(4着)でも登場していましたね。
セント・クレスピンも、プチット・エトワール同様にアガ・カーン/アリ・カーン親子によって生産・所有された馬。フランスでアレック・ヘッドによって調教されていました。父はオリオール Aureole 、ダービー馬タルヤー Tulyar の半弟という良血です。
2歳時は僅か1戦ですが、重賞のインペリアル・プロデュース・ステークス(6ハロン)に勝って毛並みの良さを証明します。
3歳になったセント・クレスピン、緒戦ロンシャンのギッシュ賞(1950メートル)は快勝しましたが、ジャン・プラ賞(2000メートル)で初めて敗戦。イギリスに遠征したダービーでパーシャの4着に終わります。
これで終わればただの名血馬でしたが、続くサンダウン競馬場のエクリプス・ステークス(10ハロン)では同じくフランスから遠征してきたジャヴロ Javelot 、ヴィフ・アルジャン Vif Argent を破って優勝。この後は秋の大一番、凱旋門賞を目標に暫く休養をとることになります。
凱旋門賞(2400メートル)は大混戦、5頭が短頭差、短首差で雪崩れ込む激しいレースとなり、一旦はセント・クレスピンとミッドナイト・サンⅡ世の同着と発表されます。
しかしセント・クレスピンの騎手ジョージ・ムーアの抗議により、ミッドナイト・サンは2着降着、セント・クレスピンの単独優勝で確定することになりました。
3着は短頭差でル・ルー・ガルー Le Loup Garou 、4着短首差ミ・カリーナ Mi Carina 、5着短首差プリメラ Primera というのが最終着順です。
フランス・ダービー馬エルバジェ Herbager 、ワラビーなどが着外。
セント・クレスピンは4歳も現役を続行すべく調教を重ねていましたが、ある朝の調教中、落雷に拠って折れた木の枝が調教騎手を直撃して騎手は意識不明の重態に陥ってしまいます。
放馬したセント・クレスピンは驚いて逃げる途中、樹に激突して肩に大きな傷を負い、これが基で現役を引退することになるのです。
オーナーであるアリ・カーンは、1959年は2000ギニー(タブーン)、1000ギニー(プチット・エトワール)、オークス(プチット・エトワール)、エクリプス・ステークス(セント・クレスピン)、凱旋門賞(セント・クレスピン)と大レースを立て続けに制覇、1959年シーズンのイギリスのリーディング・オーナーの座を獲得します。
アリ・カーンは女性関係も派手で、常に社交界の花形でした。女優リタ・ヘイワースと一時期結婚していたと言えば、思い出される方も多いと思います。
名声の頂点に立ったアリ・カーン、この後不幸が襲うことになりますが、それはまた来年の話にとっておきましょう。
こうして種牡馬になったセント・クレスピンも、後年は日本でも供用されることになります。その時の購買価格3億円は当時でも大きな話題になりましたね。
持ち込み馬として活躍したタイテエム、日本での産駒エリモジョージなど、これまた天皇賞優勝馬のリストに名が連なっているのが面白いところ。
以上、長々と1959年を回顧してきました。一応ここで締めと致します。
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