読売日響・第605回定期演奏会
明日から大寒という1月19日、寒中に相応しい北風が吹く中、サントリーホールの読響定期に出掛けました。あちこちから “寒いですねェ~” という挨拶が聞こえてきます。
読響のシーズンは学校の年度と同じ、4月スタートで3月まで。新しいシーズンのプログラムは、前年の12月頃に発表されるのが恒例です。2021年1月定期の詳細を知ったのは、2019年の12月。それを見て真っ先に聴きたいと思ったのが、このプログラムでした。
そう、私のお目当ては何と言ってもハルトマン。待ち望んでいたプログラムが変更されなかったのは幸いでした。
リヒャルト・シュトラウス/交響詩「マクベス」
ハルトマン/葬送協奏曲
~休憩~
ヒンデミット/交響曲「画家マチス」
指揮/セバスティアン・ヴァイグレ
ヴァイオリン/成田達輝
コンサートマスター/長原幸太
カール・アマデウス・ハルトマン(1905-1963)は、ミュンヘン生まれ。指揮者ヘルマン・シェルヘンとヴェーベルンの弟子で、戦中から戦後にかけてのドイツ音楽界を代表する作曲家。何故か日本ではほとんど知られていません。8曲ある交響曲が代表作で、確かN響が第6番を二度(フェルディナント・ライトナーとガブリエル・フムラ)取り上げたことがあったと記憶します。
私がクラシック音楽の世界に入ったのは現代音楽からでしたので、ハルトマンはミュンヘンで「ムジカ・ヴィーヴァ」なる現代音楽の演奏団体を主催した大作曲家としての認識が強かったものです。
レコードではヴェルゴというレーベルが纏めた交響曲全集(上記ライトナーやラファエル・クーベリックなどが手分けして演奏したもの)を買い揃え、ショット社のスコアを手に入れて親しんできたものです。また今回演奏された葬送協奏曲にはチェコ・フィル(カレル・アンチェル指揮)の録音があって、現代音楽を得意としていたハンガリーのヴァイオリニストであるアンドレ・ゲルトレルが弾いた録音を良く聴いていましたっけ。
その作風は極めて情緒的なもので、時に悲愴感を伴って感動的なもの。現代音楽と言うよりもベルクの延長線の様な感想を持っていたものです。作品数は決して少なくはないのですが、いわゆる駄作が無いのが凄い所で、何故日本で余り演奏されないのか不思議でなりません。
そんなわけで、1年以上前から楽しみにしていたのが1月定期。葬送協奏曲の楽譜は未だ手元に無かったので、早速ショット社に注文したほどです。世の中は既に紙ベースから電子データの時代に変わっていて、初めてPDF形式で購入しました。ダウンロード販売は紙ベースより廉く(用紙代も郵送代も不要)、あっという間に手に入るのが便利なところ。このスコアは、私が初めてダウンロード購入した作品という思い入れもあるのです。
息子リヒャルトに献呈された葬送協奏曲は、単一楽章で書かれたヴァイオリン協奏曲。ハルトマンが30代半ば、1939年に作曲したもので、当時台頭していたナチスへの抗議が籠められています。全体は4つの部分(楽章と呼んでも良いか)に分かれ、第1部はイントロダクション。ヴァイオリン・ソロが淡々と弾き始めるメロディーは、チェコのフス派のコラールに由来するもの。ハルトマンは師シェルヘンを介してこの旋律を知ったやに聞いています。
スコアにして1ページしかない第1部に続くのが、アダージョの第2部。付点音符が特徴的な葬送行進曲のリズムが主体で、独奏ヴァイオリンは跳躍の大きい、極めてロマン的情緒の濃いメロディーを紡いでいきます。これぞハルトマンの世界。そのままアタッカで第3部アレグロ・ディ・モルト。ソロと弦楽オーケストラの激しいやり取りが緊張感を産み、言わば「怒りのアレグロ」と呼ぶべきか。正に全曲の核心部で、ナチスへの抗議が胸を打ちます。
第3部の最後に短いカデンツァが置かれ、音楽は静かに第4部のコラールへ。ゆったりとした葬送行進曲と括弧書きされた終結部は、冒頭とは異なるコラールが弦楽合奏に奏でられ、その合間を縫ってソロ・ヴァイオリンが哀歌を紡いでいきます。そして作品が消え入るかと思われる最後の1小節、ff の和音がフェルマータで引き延ばされ、突然のように全曲が閉じられます。
ここで成田達輝はヴァイオリンの弓を高く掲げ、ヴァイグレも指揮棒を握る右手を高々と上げて二人の睨み合い。それが一体どの位続いたのでしょうか、30秒はあったのか? 尋常でない沈黙の我慢比べを、客席は息を殺して凝視。その後に漸く起こる絶賛の嵐。成田は譜面を頭上高くかざし、ハルトマン作品を讃えるのでした。
当初、この作品を得意にしているトーマス・ツェートマイヤーが弾く予定でしたが、来日が叶わず日本の成田達輝に変更された経緯があります。この難曲を代役で弾き切ることが出来るのかという不安もありましたが、いや驚きました。全身全霊を投入した演奏スタイルと、何よりもストラディヴァリウス「タルティーニ」を駆使した音色。冒頭のコラールからして “そう、この音でなくちゃ”。
葬送協奏曲は、いわゆる「美音」が最も適さない音楽で、ゴリゴリと弦を擦る音に魂を込める必要があるでしょう。チェコのコラールが基本であるのも、この作品をチェコ・フィルが録音している理由でもありましょう。
成田達輝は1992年生まれ。パリ国立高等音楽院で学び、ロン=ティボー国際コンクールとエリザベート王妃国際コンクールで共に2位に輝いた「熱いパッションを漲らせる若き実力派」。その評価に相応しいハルトマン演奏で度肝を抜いてくれました。いやぁ~頼もしい若手がいるもんだ。これならツェートマイヤーより良かったかもね。
常任指揮者ヴァイグレは海外渡航規制が厳しい中で去年の12月に来日し、定期演奏会(ブルックナー)や第9を指揮。恐らくそのまま日本に留まって1月の一連の演奏会を振っているのでしょう。今回も拘りの選曲で存在感を示してくれました。
休憩後に演奏されたヒンデミットの「画家マチス」交響曲は、聴き始めて気が付きましたが、コラールで始まってコラールで締め括られる作品。冒頭も最後もコラールであるという解説を読んだことはありませんが、これ、明らかにコラールじゃありませんか? ハルトマンとヒンデミットは、コラールで繋がれている。
それだけじゃありませんね。カール・アマデウス・ハルトマンの父は、フリードリッヒ・リヒャルト・ハルトマンと言って画家でしたし、作曲家ハルトマンの兄もまた画家でした。(ムソルグスキーが展覧会の絵で題材にしたヴィクトル・ハルトマンとは別人ですよ)
もちろんヒンデミットの画家と画家ハルトマンは何の関係もなく、単なる偶然でしょうが、交響曲「画家マチス」がナチス政権との間に軋轢を生んだという共通点もあります。
ナチス政権と言えば、冒頭で取り上げられた珍しい交響詩「マクベス」を作曲したリヒャルト・シュトラウスも、第三帝国で帝国音楽院総裁を務めていた過去もありました。もちろんマクベスはナチスとは無関係ですが、この日のシュトラウス・ハルトマン・ヒンデミットというドイツ音楽プログラムには、底辺に流れる隠れテーマがあると感じてしまうのは私だけでしょうか。
そのマクベス、数あるシュトラウスの交響詩の中では、滅多にナマで聴くチャンスはありません。私も確か今回がナマ初体験だと思います。プログラムの曲目解説(澤谷夏樹氏)には「短調部分と長調部分がはっきりとしたコントラストを織り成す」と紹介されていましたが、私にはマクベスのモチーフとマクベス夫人のモチーフの対比として聴き取れました。このコントラストを見事に描き出し、作品の核心に食い込んでいくヴァイグレの手腕に感服。
以上、誠に聴き応えのあるプログラムで、読響では当たり前になった演奏後の指揮者呼び戻し行事に心から応えるヴァイグレの姿が印象的でした。
ところでマエストロ、12月からの日本滞在が更に続くかのように、来月二期会が公演する「タンホイザー」のピンチヒッター(本来はアクセル・コーバーが来日するはずでした)も受け入れてくれましたね。ヴァイグレ/読響の快進撃はまだまだ続きます。
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