読売日響・561回定期演奏会

台風9号が通り過ぎた首都圏、異様なほどの蒸し暑さの中を読響定期を聴きにサントリーホールに出掛けました。読響が8月に定期演奏会を開くことはかなり珍しく、私が知っている限りでは初めての体験です。
理由は来年早々にサントリーホールが改修工事に入り、半年ほど閉館になるから。この間はどのオケも会場を他に移すことになりますが、読響は3月までのシーズンは全てサントリーホールで行うべく、8月に前倒しするということでしょう。

しかし昨日の定期、真夏の暑苦しさを跳ね返すような素晴らしいコンサートで、変則開催を感動に変えてしまいました。

R.シュトラウス/交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」
R.シュトラウス/4つの最後の歌
     ~休憩~
R.シュトラウス/家庭交響曲
 指揮/セバスティアン・ヴァイグレ
 ソプラノ/エルザ・ファン・デン・へーヴァー
 コンサートマスター/日下紗矢子
 フォアシュピーラー/長原幸太

今年は8月にも定期を開催するオケが結構多く、ブルックナーやショスタコーヴィチの交響曲など夏向きとは思えない大作が並んでいます。その意味では読響も同じですが、ヴァイグレの見事な棒と読響の卓越したアンサンブルが夏の不快感を全て拭い去って行った印象。
涼しい避暑地で夏を過ごし、コンサートをサボった定期会員はキット後悔することになりそうです。

今回が読響初登場となるヴァイグレは、フランクフルト歌劇場の音楽総監督。フランクフルトと言えば先月現地を初体験してきたばかりで、今までとは違って耳に快く響く都市の名です。
実はドイツから帰国する当日にフランクフルト・オペラでヴァイグレが「ヴォツェック」を振っていて、時間に余裕のある同行諸氏は舞台を楽しんできたはず。この点ではチョッと悔しい思いもしています。
またヴァイグレはかつてハンス・ロットの交響曲を紹介してくれた一人で、その録音は今も愛聴盤の一つ。初めて聴く指揮者に期待感を抱きつつ定席に陣取りました。

堂々した体躯で登場したヴァイグレ、ティルの冒頭から耳を惹きつけます。「昔々、ある所に」のフレーズからして実に繊細かつ雄弁。サラッと流すのではなく、ワクワク感を伴いながら客席に語り掛ける。この出だしを聴いただけで、ヴァイグレは只物ではないと確信しました。
それからの展開は、ただ圧倒されるばかり。ただでさえ凄腕揃いのアンサンブルから、その表現力を最大限引き出していく手腕は第一級のマエストロの証。「マエストロ」という言葉を軽々に使う最近の風潮を苦々しく感じている私ですが、ヴァイグレこそは「マエストロ」に相応しい生まれながらの指揮者であると断言します。

ティルの処刑の場面。ここはアド・リブでホルンが更に4本追加されますが、ヴァイグレはスコアの指示通り実行(4本だけで済ませてしまう演奏も多いのです)していました。もちろん後半の家庭交響曲には8本のホルンが必要なのでメンバーは揃っていた、ということもあるのでしょうが・・・。流石にトランペットの3本増量はやりませんでした。

続く4つの最後の歌も素晴らしいもの。今回のソプラノは南アフリカ生まれのへーヴァーという方ですが、ヴァイグレ監督下のフランクフルト所属だった経歴。マエストロとの共演も重ねてきであろうと想像されます。
堂々たる体躯から流れるピュアな声質は正にシュトラウス歌い。歌手にとっての楽器は身体そのものだということを改めて認識してしまいました。何より声量の豊かなこと、そのコントロールとピークに持って行く呼吸の見事なこと。これだけのシュトラウスは滅多に味わえないと聴きました。

当然ながらヴァイグレの伴奏、というよりリードしていく技量の素晴らしさは絶賛もの。この4曲は全てオーケストレーションが異なり、曲が進むにつれてより豊かに、音色が多彩になるように工夫されています。例えば第1曲で金管はホルン4本だけですが、第2曲ではトランペットが2本加わり、第3曲で3本のトロンボーンとチューバも加わる。最後の第4曲では3本目のトランペットも参加するという具合。
これをヴァイグレは見事に描き分けてくれた。へーヴァーほどの声量と表現力があればオーケストラも歌手に遠慮することなく単なる伴奏を凌駕し、ソプラノと寄り添いながらシュトラウスの世界を現出することが出来る。

ところで4つの最後の歌の曲順は、当初シュトラウスが並べたものをシュワルツコプフが現行出版譜の順、即ち1.「春」、2.「9月」、3.「眠りに就く時」、4.「夕映えにの中に」に置き換えたものですが、これで正解でしょう。
特に第4曲の最後の歌詞「Ist dies etwa der Tod ?」(これが死というものか)、が終わると、シュトラウスが若い時から度々引用してきた自作の「浄化のモチーフ」が密かに登場する。長い後奏が締め括るとき、弱音器を付けた2本のピッコロが奏でるトリルは、昇天するシュトラウスの魂を象徴するものでしょう。「夕映えの中に」こそが歌曲集の最後に歌われるべきなのです。

最後の家庭交響曲。意地の悪い評論家は愚作と決めつけてきましたが、シュトラウスが交響詩ではなく Sinfonia Domestica と名付けたのは理由があってのこと。
全体は一つのソナタであり、男性的な第1主題と女性的な第2主題、更には子供を意味する第3主題までもを駆使し、それらが展開・変容を経て再現し、全てが一体となって壮大なクライマックスを築く。つまり家庭の営みは、ソナタ形式そのものではないか。
これを単なる家族の平和な日常を描いたものと解釈してしまっては、作品の本質は見えてきません。その意味でもヴァイグレの表現はゴージャスでありながらも緻密。形式感をシッカリ押さえることで、どんな轟音も決して煩くは聴こえない。これこそマエストロと呼ぶに相応しい名演です。

蛇足を書けば、家庭交響曲にはサクソフォンが4本使われます。何年か前に読響が某日本人指揮者で演奏したときは、あってもなくても殆ど影響無いと考えたかサクソフォンを使わずに演奏するという冒涜染みたことさえ行われました。
もちろんヴァイグレは真摯に対応。ドイツの伝統を受け継ぐ巨匠として、リヒャルト・シュトラウスの神髄を伝えてくれたのでした。

抜群のコンビネーションを証明したヴァイグレと読響。これからも共演が重なっていくことを切望せずにはおられません。特にシュトラウスの連続公演が期待されるところですが、最新ニュースでは次シーズンの二期会でヴァイグレ指揮の「ばらの騎士」が実現する由。
これを第一弾としてサロメ、エレクトラ等々、シュトラウスが満喫できるなら、態々フランクフルトまで出掛けることもないか。へーヴァーのタイトルロールでアラベラなんか見て・聴いてみたいなぁ~。

 

 

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