カテゴリー: 白柳秀湖

強者弱者(76)

菫  菫の花咲く。  菫に種類多し。葉の心臓の形したるは梗長く、花淡むらさきにして森の下蔭などすべて遮蔽されたる地に咲く。葉の矢羽に似たるは、梗短く、ゆかりの色深く、香あり。耕地の畔など、すべて開豁したる地に咲く。素人の弁別し得るは普通此二...

強者弱者(75)

東京の第一印象  上野の森、芝の森、遠く霞を距てゝ見る杉の木立の瑠璃色なるに五重の塔の高く梢を抽きたるはわれら田舎物の初めて見たる東京市の印象なり。春風都門に入りて一日われらは必ず改めて東京市の第一印象を繰り返すを常とす。  城南の春、漸く...

強者弱者(74)

椿  椿の花漸く多し。青梅街道、春の雨細くして荷車の響に落ち散りたる花、駄馬の背をうちて重たげなるもをかし。椿の花は伊豆に多し。懸崖絶壁によりて、汐風に咲き出でたる風情、丸顔に眉うすく鼻小さき半島の女性を偲ぶに余あり。更に旅役者の虎御前を偲...

強者弱者(73)

春のなやみ  古くあらびたる樹の幹より、新しき芽の生ひ立つ時なり。固く冷めたき大地を割りてやはらかき草の生ひ立つ時なり。天地の悩み苦しむ時なり。  蕨市に上る。静岡地方より来るもの多し。近在は未だし。味の最もよきは駿河、伊豆の産なり。   ...

強者弱者(72)

試験前  試験前にて男女ともに学生の顔色蒼し。本郷、牛込、小石川など場末の寂しき通路をゆく青年、甲武、山手の車窓によれる少女、多くはノートを繰りひろげて一向に読み耽る。此頃歩を郊外に運ぶ人、たまたま緩らかなる岡の裾、小笹の細道など日あたりよ...

強者弱者(71)

雛祭  三日、上巳の節句、各戸皆雛をまつりて女子の前途を祝福す。蛤の吸物、くはい、うど、蓮根、椎茸の煮しめ、炒豆、五もくめしなど色黒く荒くれたる人の膳にも上りて平和の色門戸の外に溢る。袖長く髪うるはしき人の白酒に瞼を染めたる、少女の幸福ただ...

強者弱者(70)

三月  二月は一年の中に在りて最も不愉快なる月なり。新年の興楽夢の跡なきが如きに消えて、そぞろに宿酔の後を思はしむる一種の哀感綿々として尽きざるに、来るべき青春の色彩と音楽とは之を尋ぬるに所なく、世は唯風と雪と塵埃と泥濘との天地のみ。三月は...

強者弱者(69)

近郊の梅  蛤を売る声寒し。  市内各駅に鉄道庁の探梅広告を見る。杉田、大森、蒲田の梅園既に見頃なり。関東の梅は杉田に尽く。江東、木下川の梅園は未だし、梅は庭園にありてよしといふは僻言なり。大船より横須賀線に沿うて通ずる山道、渓谷紛糾して蒼...

強者弱者(68)

春漸く近し  春近く、杉の色あかし。松柏は霜に緑の色をほこるも、春に遇うて衰ふ。たとへば意志強き人の、燃ゆらん青春の日を厳粛なる努力に送りて、功成り名遂げたる暁既に頭上半白の霜を加へたるに似たり。二月の末、野に立ちて、杉の木立の色漸く衰へゆ...

強者弱者(67)

蟇の恋  晴れて風なき夜、蟇の恋する声を聞く。冬の日の長き寂寥に倦みつかれたる時、低くかすかなる声、そぞろに若き人の心をそゝる。山の手にありては、風なぎて暖き日、溝近き路の傍に昼もなほ其姿を見ることあり。           *******...

強者弱者(66)

筍  筍市に上る。目黒近在にては市内割烹店の需めに応じ既に一月の始めより筍を掘る。地を卜し鍬を入れて巧みに掘り当つるを見るに長さ漸く三四寸なり。味美なりといふ可からず。  吹きすさぶ風寒けれども一味の暖さを覚ゆ。榛の梢漸く色づきて遠く鳶色に...

強者弱者(65)

涅槃会  十五日、釈迦涅槃会。人皆かすかなる記憶をたどりて幼時故郷の寺に見たる大聖涅槃の図を思い浮ぶる日なり。夢の如き恐怖の情、袖にすがりて図を指し、物みなの歎き悲める理由を問ひかへしたる祖母なる人の俤、追想又追想、暖日南窓、白昼の夢悠々と...