日本フィル・第728回東京定期演奏会

これは素晴らしい指揮者に出会いました。シンガポール出身の若手、カーチュン・ウォンです。

日本フィルの3月定期は、予定なら首席指揮者ピエタリ・インキネンが東京も横浜も指揮するはずでしたが海外渡航規制のため来日出来ず、ピンチヒッターを引き受けたのが彼。そのウォンも、今回のコロナ騒ぎが無ければ去年3月の東京定期に初登場し、マーラーの第5交響曲他で日本フィル・デビューを果たすはずでした。
ウォンはこれまで何度も来日し、日本各地のオーケストラを振っています。その噂を漏れ聞いていましたが、実際にその指揮振りに接したのは今回が初めて。そしてその才能に舌を巻きましたね。プログラムは、

ショスタコーヴィチ(バルシャイ編曲)/室内交響曲作品110a
R.シュトラウス/オーボエ協奏曲ニ長調
     ~休憩~
ベートーヴェン/交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
 指揮/カーチュン・ウォン
 オーボエ/杉原由希子
 コンサートマスター/扇谷泰朋
 ソロ・チェロ/菊地知也

両親は中国人ですが、育ちはシンガポール。クルト・マズアの愛弟子だったそうで、2016年のグスタフ・マーラー国際指揮者コンクールで優勝してブレイクし、今や日本のみならず世界中から引っ張りだこ状態だそうです。
日本に限っても、既にこれまでに読響、東フィル、東響、新日フィル、神奈川フィル、大阪交響楽団、関西フィル、兵庫芸術文化センター管、名フィル、京響、広響、九響に登場しており、今年新たに都響、仙台フィルへの客演も決まっているという具合。未だウォンの洗礼を受けていないオケは数えるほどしかありません。日フィルは遅きに失した感もありますが、去年中止になったマーラー・プログラムで次のシーズンへの再登場も決まっています。これから追っかけるべき指揮者として先ず挙げるべき一人でしょう。

過去の映像や写真を見ると指揮棒を使っていたようですが、今回の日フィル定期では棒を使っていませんでした。暗譜で振るのが基本のようで、今回は流石に協奏曲ではスコアを置いて指揮しましたが、ショスタコーヴィチとベートーヴェンは暗譜。シュトラウスもスコアを置いていたのはソリストへの配慮が主目的だったようで、楽譜を捲ってはいましたが、目はソリストや楽員たちのとのコンタクトのために使っていて、作品の細部は全て頭に入っている様子でした。
驚いたのは、プログラム冒頭のショスタコーヴィチも暗譜で振ったこと。バルシャイが弦楽オーケストラ用に編曲した作品とは言え、原曲は弦楽四重奏曲。単にスコアを暗記しているというだけではなく、ショスタコーヴィチが書き付けた音符の意味を理解し、自らの表現を咀嚼したうえでの暗譜であることは、その指揮振りからハッキリと見て取れるのでした。私は必ずしも暗譜することが指揮者の能力だとは思いませんが、ウォンの暗譜力は、その音楽的才能に裏打ちされているものだということが確信できます。

その指揮振りも独特。正確にリズムを刻むというタイプではなく、作品の核心を大きく捉え、自身の解釈をプレイヤーに向かって解き放っていくような振り方。これは田園で見事に発揮されるのですが、フレーズの盛り上げ方が指揮振りを見ているだけで読み取れる。フレーズが楽器間で受け渡されていくような箇所では、腕ではなく目で指揮したりもする。時に腕をグルグル回したり、飛び上がらんばかりの瞬間も。
定期初日、金曜日の様子はTVUチャンネルから有料配信(たったの千円)され、1か月間は何度でも視聴できますから、是非映像で確認してください。

今回のプログラムは、当初インキネンが振る予定だった曲目をベースに、指揮者とオーケストラとの協議のうえで決められたものでしょう。その上で、暗い雰囲気の作品から始め、徐々に明るさを加えながら、最後は感謝の音楽で閉じられる。これはウォンが日本フィル会員の為に寄せたメッセージでも確認できますが、明らかに現在の世界の情勢を考慮してのプログラミングであることも明確です。
更に言えば、この日は開演前に舞台上で楽員によるプレ・コンサートも行われたのですが、題して「感謝のコンサート」。日頃日本フィルを支えてくれているファンの為に感謝の気持ちが伝えられたのですが、感謝に始まって感謝で閉じられる一連のコンサート。何とも素晴らしい企画じゃありませんか。

ということで開幕前のミニ・コンサート。アシスタント・コンサートマスターの千葉清加とソロ・チェロ菊地知也のデュオで、ヘンデル作曲ハルヴォルセン編曲によるパッサカリアが演奏されました。
これがまた見事なデュオで、室内楽ファンなら必ず何処かで聴いたことがある名曲を二人の名手の合奏で聴けたのは誠に有難い前菜でもありましょう。先ず室内楽ファンの心を掴み、続いて弦楽四重奏ファンなら知らぬ人が無いと言って良い名作、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第8番をバルシャイ編曲で楽しむという、偶然でしょうが室内楽繋がりと言う心憎ささえ感じてしまいましたね。

その室内交響曲、スコアに人数の指定はありませんが、ファーストから順に8-8-6-6-5人による弦五部。日本フィルの弦楽配置は、基本としてヴィオラが指揮者の右手端に出る並びですが、この日はチェロを右端に置いていました。通常とは異なることから、これは恐らくウォンの指示なのでしょう。
バルシャイの編曲は、単にコントラバスを追加して音量的な拡大だけを目指したものではありません。時折ヴァイオリンやチェロのパートをソロに委ねたり、各パートを分奏させ、交互に弾き交わすような編曲を加えてよりシンフォニックに響かせて行きます。

例として第1楽章、具体的には練習番号2からのヴァイオリンの長いメロディー・ラインはファースト・ヴァイオリンのソロ。同じく第4楽章から第5楽章への橋渡しとなる「怒りの日」からの引用もファーストのソロ。第4楽章に登場する哀し気な「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の引用は、チェロ・ソロで。
極め付けは第2楽章、ピアノ三重奏曲第2番の激しい引用箇所で、前半はヴィオラとチェロ、後半は両ヴァイオリンが分奏となり、しかも各プルトの表と裏に分かれて夫々のパッセージを交差するように弾いていくのです。ここは見た目にもスリリングで、思わず息を殺してプレイヤーたちの白熱の激闘に見入ってしまいました。

ウォンの的確なタクトに答えた弦楽アンサンブルも見事の一言。各パートがリーダーと心を合わせて合奏する様子はけだし見ものでした。もちろん指揮者は百も承知、演奏後には各パートのリーダーたち、ファースト扇谷泰朋、セカンド竹内弦、ヴィオラ安達真理(ゲスト)、チェロ菊地知也、コントラバス高山智仁を一人づつ紹介して拍手に応えていました。
冒頭のショスタコーヴィチを聴いただけで、指揮者ウォンが本物のマエストロであることを確信した次第。

終始暗いムードに終始した1曲目に続き、2曲目は明るさが差し込むシュトラウスの名作、オーボエ協奏曲。ソロは、同オケの首席オーボエを務める杉原由希子。日フィルの看板奏者でもあります。
オーケストラの首席奏者が協奏曲のソリストとして登場するのは、前日に聴いた読響の鈴木康浩と同じ。日常の活動を共にする仲間の演奏を支える姿は、何時、何処のオーケストラを見ても心和むものがあります。

シュトラウスのオーボエ協奏曲も、そんな一曲。プログラム誌の解説(小宮正安氏)では「メタモルフォーゼン」からの影響が紹介されていましたが、私がいつも感ずるのは、歌劇「ナクソス島のアリアドネ」に通ずる雰囲気なのです。アリアドネと言うより、このオペラで花形とも呼べるツェルビネッタに通ずる共通感。
楽章は三つ。両端の二つの楽章は、ツェルピネッタの喜劇役者としての性格を映し出していますが、私が大好きなのは第2楽章。ツェルビネッタはオペラの中で作曲家(もしかするとシュトラウスの自画像?)に愛情を抱き、ここで初めて本心を露にします。この第2楽章は正に「愛」そのもの。私はこの楽章、どうしても涙を堪えることが出来ません。泣けるんだよなぁ~、シュトラウスのオーボエ協奏曲。

この協奏曲では第2楽章、第3楽章と二つもカデンツァが聴けます。最初のものはカデンツァと言いながら弦楽器の合いの手が入る書かれたカデンツァ。第3楽章はより短いカデンツァですが、何ともお得感溢れる聴き物。第3楽章も、カデンツァの後のコーダでは8分の6拍子に変わり、前半とは楽章が変わったよう。一粒で何度でも楽しめるのがこの曲なのですね。
もう一つ、オーボエ協奏曲ですから、オーケストラにはオーボエが出て来ず、代わってイングリッシュ・ホルンが使われます。オーケストラが演奏前に行うチューニングはオーボエのaからですが、この曲の場合はイングリッシュ・ホルンの音でチューニングするんですね。とても珍しい光景ですから、土曜日に聴かれる方、配信で視聴される方は是非注目してみてください。因みにオーボエ協奏曲では、弦楽器はショスタコーヴィチやベートーヴェンより各パート共1プルト少ない6-6-4-4-3で演奏していたことを付け加えておきましょう。

休憩を挟んで、メインはベートーヴェンの田園。これまた素晴らしい演奏でしたね。こういう田園が聴きたかった、ベートーヴェンはこうでなくちゃ、というベートーヴェン。
一々細部を紹介する気はありませんが、それでも例えば第1楽章コデッタの再現部では、提示部には無かった第2ヴァイオリンのピチカートをはっきりと聴きとらせてくれること。第2楽章中間部でフルートとクラリネット、続いてフルートとファゴットの間で微妙に不協和音を生ずるところがあり、それが川面に光が当たってキラキラする様子に聴こえたりする場面等々。正に、そこが聴きたかったんだよ、と叫ばずにはいられないような感動があるのでした。

初めて接したカーチュン・ウォン。その衝撃は、遥か昔に広上淳一を初体験した時の思い出に匹敵するかもしれません。来月は来日出来なくなった代わりに読響を指揮するというビッグ・ニュースも入っています。暫くウォンを追っかけてみよう、そんな感想の日フィル定期でした。

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