読売日響・第607回定期演奏会

首都圏のサクラはほぼ散ってしまいましたが、新会計年度を迎えた4月、読売日本交響楽団も2021/22シーズンが開幕しました。六本木一丁目駅からカラヤン広場に向かう橋の脇にある枝垂桜が辛うじて花を残しているのを見ながら、サントリーホールに向かいます。
当初の予定では、4月定期は前常任指揮者で桂冠指揮者のシルヴァン・カンブルランが久々に指揮台に立つ予定でしたが、来日不可。替わってピンチヒッターに指名されたのが、先月も代役として日本フィル東京定期を大成功に導いたカーチュン・ウォンでした。これを聴き逃す手は無いでしょう。

細川俊夫/瞑想~3月11日の津波の犠牲者に捧げる
デュティユー/ヴァイオリン協奏曲「夢の樹」
     ~休憩~
マーラー/交響詩「葬礼」
マーラー/交響曲第10番~「アダージョ」
 指揮/カーチュン・ウォン
 ヴァイオリン/諏訪内晶子
 コンサートマスター/小森谷巧

カンブルランのプログラムは、冒頭にドビュッシーの遊戯を置き、2曲目が諏訪内を迎えてのデュティユー。後半は細川作品で始め、ヴァレーズのアルカナで締めるという如何にもカンブルラン好みの選曲でした。
しかしカーチュン・ウォンに変わることにより、選曲も演奏曲順も変更。上記のプログラムになった次第です。

カーチュンについては先月、日フィル定期のレポートで色々触れましたから、プロフィール等についてはそちらを参照してください。読響とは既に共演を重ねていて、2019年2月の都民芸術フェスティヴァル、翌月の目黒区公演に次いで今回が3度目の由。昨日が定期演奏会デビューで、失礼ながら前2回が比較的マイナーなコンサートだったこともあり、定期会員には初めてカーチュンに接した方も多かったと想像します。そして、ここでも起きましたね、カーチュン旋風が・・・。

個人的に彼を聴いたのも、先日の日フィル定期に続き2回目。日フィルとは同じだったことと、違っていたことがありました。
同じだったのは弦楽器の並び方。日本フィルは右端にヴィオラが出るのが通常の並びですが、カーチュンの時はチェロを右端に配置していました。これは読響も同じで、今回は珍しくチェロが右端に出てヴィオラが内側に入る。両方のオケで通常の弦楽器配置を入れ替えていましたから、恐らくこれは指揮者の指示、乃至意向だろうと思われます。

一方、違っていたのは指揮棒。日本フィルでは棒を使わず、両の手をしなやかに動かしながらオケに音楽を伝えていましたが、読響では全4曲とも指揮棒を使用。これは、演奏作品の特質を考えてのことでしょうか。要するに、この点は作品によって柔軟に使い分けているということだと思慮します。写真などで見る限り、指揮棒を使うのが本来の姿なのかもしれません。
協奏曲や現代作品ではスコアを見ながら指揮しますが、古典派やロマン派、作品によっては新しい音楽も暗譜で振るというのも確認できました。今回は後半のマーラーは全て暗譜で振りましたが、葬礼や第10のアダージョは、普通暗譜するような作品じゃないですよね。彼の場合、ただ覚えているというだけではなく、徹底的に譜面を読み込んだ上での結果に過ぎない。それが振り方で聴いている方にも伝わってくる、というのが凄い所。では少しづつ個々の作品に触れていきましょう。

冒頭の細川作品は、そもそもカンブルランが選んだもの。もちろん今年が東日本大震災から10年という節目の年に当たるからなのでしょうが、それ以上に作品の質の高さが評価されているからでしょう。
実際、この作品は現代音楽にしては極めて演奏頻度が高く、私もナマで接するのは二度目、前回は2015年7月、神奈川フィルの音楽堂シリーズでのことでした。その後も2018年には広島交響楽団と札幌交響楽団が定期で取り上げまししたし、残念ながら中止になってしまいましたが、去年はN響定期でも紹介される筈でした。

「瞑想」は、災害と能「隅田川」のイメージを合体させた音楽。今回の曲目解説(沼野雄司氏)では能との関連については触れられていませんでしたが、6年前に神奈川フィルで聴いた時には細川氏本人がプレトークで語り、自身がプログラムノーツで触れられていましたから、間違いないでしょう。
一方、今回のプログラム誌にはスコアに書かれている各部分のヒント、「宇宙の鼓動」「書」「瞑想」「哀歌」「怖れ」「祈り」などが紹介されており、これが大変参考になりました。不思議なのは、2012年に初演されてからほぼ10年にもなるのに、未だにスコアが市販されていないこと。これほど世界的に見ても数多く取り上げられているのですから、ショット・ジャパンさん、そろそろ売り譜を出してくださいな。それが音楽出版社の仕事であり、社会貢献でもあるでしょ。

カーチュン・ウォンは、最初の大太鼓強打から極めて緊張感に満ちたもの。アルトフルート、バスクラリネットの聴き所も感情豊かに表現していきます。演奏後、スコアを高く掲げ、客席の細川氏に何度も謝意と称賛を伝えているのが印象的でした。
日本フィルでもそうでしたが、ウォンは最初のカーテンコールで重要な役割を果たした楽器を立たせて紹介していきます。これが誠に適切で、聴き終わってからなるほど、この作品のキモはここだったのかと納得させてくれる。改めてこの指揮者の鑑識眼と知性、楽員への尊敬心に舌を巻くのでした。

2曲目もカンブルランの、そしてもちろん諏訪内の選曲であるデュティユー。カンブルランはデュティユーの紹介に熱心で、常任指揮者時代に第2交響曲、チェロ協奏曲、音色・空間・運動などで客席を沸かせてきました。今回のヴァイオリン協奏曲もその一環になる筈でしたが、それは見事にカーチュンの手に引き継がれた、という感想です。
ソロも含め、決して演奏が容易ではないコンチェルト。近年は現代作品の演奏に情熱を傾けている諏訪内。その存在感溢れるデュティユーに時間が経つのを忘れてしまいました。

この協奏曲は、アイザック・スターンの還暦を祝して書かれたもので、何とロリン・マゼールの指揮でパリで初演されました。その時に同時に制作されたCDで楽しんできましたが、誰もが弾ける作品とは思えません。
しかしデュティユーが夢見ていたのは、新作のヴァイオリン協奏曲がベートーヴェン、ブラームス、メンデルスゾーン、チャイコフスキーの名曲と並んで後世にも聴かれること。その夢が、大木が幹から何本もの枝を伸ばしながら成長していく樹のイメージと合体したのが「夢の樹」であるとも言えるでしょう。

作品は、4つの楽章が3つの間奏曲を挟みながら途切れることなく、単一楽章のように続く30分弱の構成。間奏曲Ⅰでのバスクラリネット、第3楽章の緩徐楽章でのオーボエダモーレ、恰もチューニングをやり直しているかのように見え、そして聴こえる間奏曲3、などなど聴きどころ満載、聴き応えも十分なヴァイオリン協奏曲です。果たしてデュティユーの夢は叶うでしょうか。
この難曲を見事に弾き切った諏訪内への大拍手、その後でカーチュンが指名したオーケストラ団員たちの顔ぶれは、細川作品と同じく作品のキモを担当した楽器たち。オーケストラの名演と、サポートした指揮者の底力を忘れてはいけません。

後半はマーラーの2曲。比較的若い時に書いた交響詩と、未完に終わった交響曲の完成楽章が続けて演奏されました。この二つが休憩なく続けられることはホームページで知ったのですが、当日のチラシでは各種案内の片隅に触れられていただけ。プログラムへの記載には間に合わなかったのでしようか、何度も場内アナウンスで注意が呼びかけられてしました。
それにしても、作曲年代が異なる2作を繋げてしまう指揮者の意図とは? これは私の勝手な解釈ですが、前半の2作、細川にしてもデュティユーにしても異なる二つのイメージを合体させたような音楽じゃないですか。そこでカーチュンの頭を過ったのが、マーラーの二つの異なるイメージを合体させたらどうなるか。これ、絶対に信用しないでくださいな。

最初の「葬礼」は、第2交響曲の第1楽章の原型になったもの。造りとしては復活そっくりですが、微妙なところで第2交響曲とは違いもあります。良い例は、コントラバスから始まる葬礼の行進が、弦楽器群の後方のプルトから始まって次第に前のプルトに増えていくところ。まるで葬列が近付いてくるような印象を与えてくれました。指揮者が弦楽器の配置を敢えて変更するように依頼したのも、この辺りに意図があったでしょうか。
アダージョは、いつもの読響サウンドをグッと控えめにし、音に濃密度と緊密度が加わったのが素晴らしい所。カーチュン・ウォンと読響が紡いだマーラー・サウンドには、怪しげな色気さえ漂っているように聴こえました。

理屈は判らないけれど、何て素晴らしい指揮者なんだ。その思いは多くの聴き手にも伝わったようで、カーチュン最後のバイバイ挨拶が終わって楽員が引き揚げても拍手は止まらず、一人再登場したウォンを客席はスタンディング・オヴェーションで迎えるという光景になってしまいます。
恐らく楽屋では、次の定期登場は何時にしましょうか、という交渉が行われたのではないかと想像します。この話も、絶対に信じないでね。

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