読売日響・第489回定期演奏会
前日に続いてのサントリーホール、昨日はN響のライヴァルと目されている読響の定期を聴いてきました。
1月の読響は初共演となるアメリカの女流指揮者、マリン・オルソップ。私はナマもレコードも聴いたことは無く、文字通り初物でした。
主にアメリカとイギリスで大活躍している由で、レコード録音も多い人。私は余程必要に迫られない限りCDを買わなくなって数十年が経ちますので、彼女のブラームスやナクソスのアメリカ作品シリーズも聴いたことがないのです。定期のプログラムはへヴィーな選択、
バーバー/交響曲第1番
~休憩~
マーラー/交響曲第1番
指揮/マリン・オルソップ
コンサートマスター/藤原浜雄
フォアシュピーラー/鈴木理恵子
バーバーは生誕100年。マーラーは今年が生誕150年で来年が没後100年、つまり二年連続でアニヴァーサリーとなるわけで、読響でも大々的にプロジェクトを組むようです。このコンサートも《マーラー・イヤー・Ⅰ》と大書されていました。
いつもの定期に比べると空席がかなり目立ちました。マーラーの人気曲があってもこれなのは、やはり初物を警戒する人たちが多かったのでしょうかね。
大きな声では言えませんが、招待券もかなり出回っていたのではと推測されます。
あ、私はちゃんと正規価格でチケットを購入して入場していますからね。文句を言う資格はある積りですよ。なぁ~んちゃって。(これは文句を言う伏線か)
オルソップ女史、初めての人なので指揮振りなどを記録しておくと、先ず彼女は暗譜で振ります。バーバーですら暗譜。
指揮棒を使用し、やや前屈みでかなり大きな身振り。見ていて誰かに似ていると思ったのですが、誰だか思い出せません。弦の配置は読響のスタンダード、アメリカ型でヴィオラが最右翼。
前半のバーバーは古いワルター/ニューヨーク・フィルの録音で親しんできた作品ですが、私はナマでは初体験。このコンサートで最も注目していたのがこれです。
しかし聴いた結果はやや失望、としておきましょうか。それは作品ではなく、どうやら指揮に問題があるらしいのです。
この交響曲は謂わば単一楽章のシンフォニーで、全体は性格が明瞭に聴き分けられる四つの部分で構成されています。当然ながら冒頭に出る主題が全体を統一する。
その最後の部分は、冒頭2小節目に出るテーマを用いたパッサカリアになっています。3拍子のパッサカリア主題は6小節単位、低弦に pp で登場してから13回、即ち 6x13で78小節間繰り返されてコーダに突入するのですが、どうもこの日の演奏ではパッサカリア主題が明瞭に聴こえてきません。
オルソップは細かな対旋律に拘る余り、大きな流れを見失っているようにも聴こえました。あれではここがパッサカリアであるというこに気が付かない聴き手も多かったのじゃないでしょうか。
最後にパッサカリアが置かれていること、冒頭3小節目に出る作品全体を統一する主題が3度下降の連続音で構成されていることからして、バーバーは知らず知らずのうちにブラームスの第4交響曲を意識していたのではないでしょうか。
それだけに、このパッサカリアは重要な聴き所だと思います。このヴェテラン指揮者がそのことを知らないはずはなく、やはりオーケストラをコントロールする技術が今一歩ではないか。
その意味で不満の残るバーバーでした。
一度そう思うと先入観は容易には消えず、後半のマーラーも具合の悪い結果に終始しました。
ここでもバーバーと全く同じことが言え、作品の全体的な流れがしっくり行かない。何処となく座りの悪いマーラーになってしまうのです。
ここでも細部に拘泥して、肝心の決め所がピタリと決まらない。テレビ劇ではないけれど、音楽には「止め、撥ね」が肝心なもの。オルソップは、そこが曖昧になってしまうのです。
第1楽章の展開部に入ったところでクラリネットの「カッコウ」が1か所落っこちましたが、これもそのこととは無関係ではないと思います。
流石に腕達者な読響、最後はスリリングに纏めましたが、外連やハッタリではメリーウイロウは騙されません。
たった一度の演奏会で断定するのは危険、ということを承知で言えば、二日連続で同じホールで二つのコンサートを聴いて感じたのは、広上淳一が如何に凄い指揮者であるか、ということ。今定期の読響は皮肉にもそのことを証明する結果になってしまいました。
悪いオーケストラは無い、悪い指揮者がいるだけだ、と。オーケストラは指揮者次第で如何様にも変るものなのです。
最後に、以上の辛口な感想は、あくまでも少数派の意見であることを付け加えておきましょう。
会場は大喝采でオルソップを称えていましたからね。
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