日本フィル・第736回東京定期演奏会
いやいや、これは凄い演奏会でした。って、ほんの一月ほど前に同じフレーズでブログを書き始めましたね。京都市交響楽団の東京公演、会場は同じサントリーホール、曲目も同じマーラーの第5交響曲でした。
しや、どっちがどうという聴き比べの話じゃありません。短い間に同じ音楽で比類のない体験が出来た、何と素晴らしいことじゃありませんか。それが、これ↓
《首席客演指揮者就任披露演奏会》
アルチュニアン/トランペット協奏曲
~休憩~
マーラー/交響曲第5番嬰ハ短調
指揮/カーチュン・ウォン
トランペット/オッタビアーノ・クリストーフォリ
コンサートマスター/木野雅之
ソロ・チェロ/菊地知也
日本フィルの12月定期ですが、12月と言えば日本中が第9一色になる季節。それが何とか言う変異株の所為でオーケストラ界はハチャメチャになってますね。予定していた指揮者は突然のことで来日出来ない、歌手も然り。代役を頼んでもスケジュール調整に手間取り各オーケストラの事務方は大変な苦労を強いられていることと想像します。
偶然とは言え、12月定期を振るカーチュン・ウォンは鎖国令が布かれる前、11月中に来日していて無事に首席客演指揮者就任披露演奏会の指揮台に立てることが出来ました。11月20日には杉並公会堂を訪れ、ピエタリ・インキネンとのツーショットという楽しいシーンも残っています。運とは言え、やはり何か持っている人は違うな、というのが正直な感想。
本来このプログラムは2020年の3月に予定されていたもの。それが最初の緊急事態宣言で中止、というか延期になり、1年9か月ぶりに実現した定期でもあります。もし予定通り去年の3月に開催されていたなら就任披露演奏会という冠は付かなかったでしょうし、その後の混乱がこの日の偶然を産み出した、と言えなくもない。世の中、何が起きるか分かりませんな。
カーチュンと日フィルとの出会いは当初の予定から丁度1年後の今年3月、その時のベートーヴェン第6の余りの素晴らしさに興奮し、思わずスタッフのY女史に「この指揮者、何かポストを提供して定期的に振って貰うべきですよ」 「いやぁ、彼は日本中のオケから引く手数多で激戦区なんですよ」 という会話を交わしたのもついこの間のこと。9月に速報が入ってきたとき、我が目と耳を疑う程に驚愕したものでしたっけ。ほとんど奇跡に近い現実。ま、3月定期の衝撃は読み返してみると恥ずかしくなりますから、この辺で。
この定期、曲目を見てもピンと来るでしょう。プログラム・ノート(渡辺和氏)にもあるように、「前代未聞のトランペット祭り」でもあります。前半でソロを吹く日フィル首席のオットーが、後半のマーラーでも首席として冒頭のソロを担当するという。それだけじゃない、実は指揮者カーチュン・ウォンも音楽事始めはトランペット奏者としてであったという、隠れトランペット繋がりもあるのです。
その辺りを、マエストロ自身がプレトークで語ってくれました。本来金曜定期ではプレトークは無いのですが、今回は特別。首席客演指揮者就任披露演奏会なので短い挨拶でもあるのかなと予想していましたが、どうして演奏作品について自身の体験に基づく深堀したトーク。
余り詳しくは触れませんが、高校時代にアルチュニアンの協奏曲を一小節づつ練習していた話。シンガポールでは2年間の兵役義務があり、偶々配属されたのがブラスバンドで、マーラー第5の冒頭は若い兵士の葬列でトランペットを吹いた経験を思い出す、という話題など。
とかく評論家のプレトークは教科書的、レコードの解説書の繰り返しになり勝ちですが、音楽家本人による解説は自身の体験、演奏家として考えていることを直に語ってくれるので、作品の意外な側面に触れることが出来ます。その意味で、日フィルでかつて開催されていたマエストロサロンを思い出させるものでもありました。ネーメ・ヤルヴィにしてもラザレフにしても、とても評論家諸氏の口からは発せられないトンデモ解説に毎回楽しませて貰いましたっけ。
で、前半を聴きます。アルメニアの作曲家アルチュニアン(1920-2012)のトランペット協奏曲は、恐らくハイドン以降で最も愛奏されているコンチェルト。時にオーケストラのオーディションにも指名されるほどトランペット吹きにとっては欠かせない一曲だそうです。特に日本では全音楽譜出版社から小型スコアが出版されていることもあり、これがナマ演奏初体験とは思えないほど懐かしく聴くことが出来ました。
この懐かしさ、冒頭のスペイン風なテーマ、解説の渡辺和氏も触れている昭和ムード歌謡風なメロディーなど、東洋的な抒情を鏤めた作品の性格からも来るのでしょう。名手オットーの自在で滑らかなトランペット、作品を知り尽くしている指揮者の的確な棒が相乗効果を生み、これ以上は無いと思える見事なトランペット協奏曲に酔いました。
因みに全音スコア、この作品の評価を決定的にしたティモフェイ・ドクシツェルによるカデンツァ(もちろん今回もこのカデンツァでした)も印刷されていますし、山本英助氏による秀逸な解説には、ツォラク・バルタサリアンやアイカズ・メシアヤンといった名前でしか知ること無いトランペット奏者も登場してきます。
そして後半。待ちに待ったマーラーです。何よりカーチュン・ウォンは2016年のグスタフ・マーラー国際指揮者コンクールの覇者。それ以来マーラーの孫娘マリナ・マーラーとも親交を深め、マリナは今回の演奏会に当たって日本フィルに特別なメッセージを寄せられました。その内容はプログラムにも転載されていますが、日フィルのホームページでマリナ本人が登場する動画で見ることが出来ます。サイケデリックな眼鏡に驚かされますが、私のグランド・ファーザーが、と普通に喋る辺りは感動的ですらありましょう。
そんなマエストロの振るマーラー。プログラム誌にはいつもなら簡単な出演者プロフィールが掲載されているものですが、今回のプロフィールは力作です。オッタビアーノ・クリストーフォリのプロフィールも同様ですが、これほど微に入り細を穿った紹介文を見たのは久し振り、いや初めてかも知れません。これは永久保存版でしょ。
第5交響曲、冒頭で思わず口走ったように、凄かった。予想はしていたけれど、期待以上でした。
この交響曲は通常、全5楽章と解説されますが、実は3部構成でもあります。カーチュンは第1楽章と第2楽章を間髪を入れずに続け、第2と第3楽章の間、第3と第4楽章の間に十分の休止を取るので、この形が聴いていて直ぐに理解できる。
頂点とも言える第3楽章は、ホルンが大活躍。ここでの首席奏者・信末碩才は見事。日フィルのホルン奏者と言えばN響に転じた福川くん、読響に転籍した日橋くんを思い出しますが、若手の信末も演奏会を重ねるごとに存在感を増してきました。何と層の厚いオケであることよ。
ホルンの活躍が目立つだけじゃありませんね、第3楽章は。カーチュンが引き出す様々な要素を目にしていて気が付いたのは、例えば練習番号8からファースト→ヴィオラ→チェロ→セカンド、そして再びファーストへと受け継がれていく「荒々しく Wild !」と表記された激しいパッセージ。ここ、もう一つの第5交響曲の第3楽章トリオ部と、音楽はまるで違うけれどアイディアとしては同じじゃないか。
練習番号11からのピチカート。弦楽器のピチカートが聴く人の耳をそばだたせるというアイディアも、やはりハ短調からハ長調に向かうもう一つの第5の第3楽章、スケルツォ回帰部と同じ。
嬰ハ短調からニ長調に、暗黒から勝利に向かうシンフォニー、つまりベートーヴェンの偉大な第5を、やはりマーラーはリスペクトしていたに違いない、猛々しいホルンの活躍、弦楽器のカノン風なパッセージ、そしてピチカートと。そんな「気付き」を提供してくれたのが、カーチュン・ウォンが指揮する日本フィルでした。
それは第4楽章も続きます。数えたわけではないけれど、恐らくこの日の弦楽合奏は16型だったと思います。であれば、30人の弦楽器奏者と一人のハープによるアダージェット。ウォンはこの弦楽合奏から誠に緻密で繊細、且つパッションに満ちた合奏を引き出していく。オケの弦楽合奏というより、31人の室内楽。
この発想、この後に続くシェーンベルク(浄められた夜)、リヒャルト・シュトラウス(メタモルフォーゼン)にも受け継がれていくのでは・・・。斯様に妄想の翼を広げてくれたのが、カーチュン・ウォンが指揮する日本フィルでした。
最弱音が消え入り、普通よりは長めの休止の後で第5楽章のホルン・ソロ(またしても信末)が響く。アダジェットの余韻が聴こえ、ロンドのテーマがファゴット、オーボエ、クラリネットに登場する。アダジェットの終わりからここまで、ほとんど息も出来ずに聴き入ってしまいました。漸く緊張が解れたのは、24小節で Allegro giocoso がそれこそ「楽しく」始まってから。
このロンドも、カーチュンの手に掛かると彼方此方の斜面から小川が流れ出し、最後は本流となってニ長調の大団円に向かって奔り出すかの如し。正にカーチュン・マジックが炸裂した瞬間でもありました。
日本でのカーチュン・ウォン、今年はこれで終わりじゃありません。土曜日に定期二日目(多分金曜日より更にレヴェル・アップした名演になるのじゃないか)でも喝采を浴びた後、14日にはミューザ川崎シンフォニーホールで「国境を超えたオーケストラ・プロジェクト」を始動することになっています。チラシも配布されていますし、定期のプログラム誌にも紹介され、マリナ・マーラー氏も言及されているプロジェクト。
残念ながら私は読響12月定期とバッティングしているので聴けませんが、これからのカーチュンの活躍、益々深さと広がりを増していくことでしょう。
次回、来年5月のマーラー第2弾も聴き逃せませんね。
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