読売日響・第159回芸劇名曲シリーズ

3月のスクロヴァチエフスキ3連発、その最後は池袋での名曲シリーズです。私はこのシリーズは会員ではないので、単発券での入場。スクロヴァ人気でほぼ満席でした。
チャイコフスキー/弦楽セレナーデ ハ長調作品48
ストラヴィンスキー/管楽器のためのシンフォニーズ
     ~休憩~
ブラームス/交響曲第4番 ホ短調作品98
 指揮/スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ
 コンサートマスター/デヴィッド・ノーラン
 フォアシュピーラー/小森谷巧
当初の発表ではスクロヴァチェフスキ自身の新作、管楽器のための作品が演奏される予定でしたが、氏の都合によりストラヴィンスキーに変更になったプログラムです。主旨でもあった管楽器のみの作品と言うことで、ストラヴィンスキーが選ばれたのです。
ミスターS得意の拘りプロ、繋がりプロで、前半に弦だけの作品と管だけの作品を並べ、後半にフル・オーケストラをタップリ聴かせる趣向。
冒頭のチャイコフスキー、マエストロとしては珍しいレパートリーなのでしょうか、譜面台にスコアを置いて指揮しました。どんな難曲でも暗譜してしまうように思われがちですが、やはり長年温めている作品とそうでないものとの区別があるのでしょうか。
チャイコフスキー独特のベタつきを排した、スタイリッシュな演奏。
弦楽器が全員退場、替わって管楽器のメンバーが入場しますが、オーケストラのセッティングはそのまま。指揮者と演奏者が遠く離れて位置します。チョッと珍しい光景ですね。
プログラムでは「交響曲」という呼称を使っていましたが、これは所謂「交響曲」じゃありません。ドビュッシーへの追悼曲が原型ですから、ストラヴィンスキーとしては大先輩に敬意を表した作品だと思います。
即ち、晩年のドビュッシーは「ソナタ」という名称で連作を書きましたが、これはドイツ的な意味ではなく、「ソナタ」の原義を意識してフランスのアイデンティティーを主張したもの。
ストラヴィンスキーの Symphonies も、ドイツ的な「交響曲」を意味するのでなく、シンフォニーの原義を意識していたのではないでしょうか。
となれば、“一緒に奏でる”ことの他に、「間奏曲」という意味もあるはず。
偶然ながら、この日のコンサートの「間奏曲」として味わいの深い選曲になりました。
今回は1920年のオリジナル稿ではなく、1947年の改定稿を使用していました。
プログラムにはこの点に関する指摘がありません。
(オリジナル稿ではアルト・フルートを使うので、見ただけで判ります)
ストラヴィンスキーの後半はコラールで書かれていますが、ブラームスの最後はパッサカリア。これまた偶然ながら、ストラヴィンスキーとブラームスの間にも繋がりを見出せるプログラムとなりました。
そのブラームス。スクロヴァチェフスキ/読響による全曲演奏の最後を飾るに相応しい名演。特に第2楽章は当夜の白眉でしょう。
私は全4曲をナマで聴くことができましたが、マエストロのブラームス解釈は首尾一貫しています。決して作品によってブレることがありません。
即ち、あくまでも弦を基本、それも低弦を中心に据えたピラミッド型の構築物。金管やティンパニは控えめにし、派手なこけおどしとは無縁。
極めて重心の低い、如何にもブラームスという演奏は、かつてベルリンやウィーンのオーケストラをフルトヴェングラーやカラヤンが指揮して聴かせてくれていたものです。残念ながら現在のドイツやオーストリアでは最早聴けなくなったブラームス。
これが現在の日本で目の前で聴けるということは、奇跡に近いことなのかも知れません。
余談。
最近のコンサートは、最後の拍手が長過ぎる傾向にあります。今日はコンサートマスター、ノーラン氏が頃合を見計らってサッと引き揚げました。実に良いことです。
お陰で8時9分池袋発の湘南新宿ラインに間に合い、8時半には西大井に着いていました。あと5分遅れると急行になってしまい、次の普通まで延々と待たなければならないのです。
今日はラッキー!!

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