読売日響・第523回定期演奏会

昨日のサントリーホール、演奏が終了し、楽員が引き揚げた後もマエストロを呼び出す拍手喝采は鳴り止まず、下野竜也が再びステージに登場して聴衆の絶賛を一身に受け止めていました。
それもそのはず、2006年11月に読響の新ポスト「正指揮者」を務めてきた下野が最後の演奏会(20日の池袋が事実上のラストですが)を迎えていたから。演奏の素晴らしさに対する賞賛に加え、6年余に及んだコンビに対する感謝と惜別の気持ちが籠められていたのは間違いないでしょう。
この所の読響は、「最後」を迎える指揮者に総立ちで応えるのが一つの「儀式」になった感すらします。その下野が最後の定期に選んだのが、これ。

ブルックナー/交響曲第5番
 指揮/下野竜也
 コンサートマスター/小森谷巧
 フォアシュピーラー/鈴木理恵子

もちろん素晴らしいブルックナーでした。他に言葉も必要としない程ですが、若干の感想を留めれば、

下野のブルックナーは正攻法。サプライズは無い代わりに、ブルックナー独特の重厚な表現は避け、どこまでも軽く、あくまでも美しくアプローチするのが特徴と言えましょうか。
今更指摘するまでもありませんが、棒のテクニックが的確で、恐らくプレイヤーも何の曖昧さも感ずることなく各パートに集中できるのでしょう。

例示すれば第2楽章。スコアを知っている人はご存知のように、ここは冒頭から4分の4拍子を3連音が支えていく。私のような素人にはリズムが難しく思われますが、下野は3連音が乱れないように1小節を6拍に振っていきます。これに乗るオーボエの4拍子は、プロの楽員には何でもないこと。
2つのリズムが同時進行する練習番号10の6小節目から、棒は1小節を2つに振って次への準備を整え、練習記号A(練習番号20の1小節前)からは本来の4つ振りに到達するという具合。これは緩徐楽章全体に徹底して貫かれていました。

美しい響きについては、第4楽章のB、第2主題の提示部を挙げましょうか。4部の弦楽合奏が対位法的に絡むこの個所を、下野は各パートのバランスを大切にしつつも、心から美しく歌い上げるように表現していました。

軽さについては何と言っても第3楽章でしょう。特にトリオの表現と言ったら! 主部の第2主題はレントラーですが、ワルツの要素もある。まるで踊り出したくなるようなリズム感。
トリオ部の軽やかさも特筆モノ。出だしの6小節単位のやり取りは、これがブルックナーの音楽であることを忘れさせるような楽しさなのです。

フィナーレに登場するコラールの扱いも鮮やか。大音響の中でも、決してコラール線を見失うことはありません。

全曲を聴き、私はウィーンの巨匠ヨーゼフ・クリップスの言葉を思い出しました。クリップスはウィーンでもサンフランシスコでも、ブルックナーのリハーサルに先立って、“ブルックナーは、実はモーツァルトだったんです”(ヒューエル・タークィ―氏の述懐)と語りかけたとか。
そう、正にクリップスを聴くような、モーツァルトのようなブルックナー演奏だった、というのが私の感想です。

さて今回のプログラム誌は正に下野特集号。「6年3か月の軌跡」と題して全共演記録が掲載されていましたし、マエストロへのインタヴューも興味深いもの。
思い出深い公演として下野は、ヒンデミットの「最後のライラック」、寸劇付の11年7月定期、黛・芥川の会、團伊玖磨とアダムスの広島プログラム、ドヴォルザーク・ツィクルスを挙げていました。
ドヴォルザークを除けば、私は全て聴くことが出来ましたし、初登場の回も最後の公演も聴けたことになります。夫々が私にとっても思い出深い演奏ではありました。

4月以降下野は首席客演指揮者として読響の指揮台に立ち続けるそうです。しかし回数は半減とのこと。新しいポストについて“活字が増えて緊張する”と皮肉も籠めて答えていましたが、昨夜の喝采から見てもオーケストラは与える肩書を間違えたのではないでしょうか。
これまでの4文字の肩書と同数の4文字肩書、即ち「音楽監督」というポストこそ彼に相応しいと思慮します。読響にとっては新たなポストですが、彼にはファンに触れ合う練習所コンサートや下野シートなどのアイデアも持っている様子。常任指揮者はそのままにしても、更に大局的に音楽活動を考える音楽監督こそ捧げるべき称号ではないでしょうか。
“海外での演奏を増やしていこうと思う”という発言も気になる所。既にヨーロッパの時代は終焉を迎えているのですから、日本のオーケストラにも発想の転換が必要です。

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