強者弱者(1)

先日JRを利用したら、山手線に命名100年記念列車を見かけました。丁度100年前に「山手線」という呼称が誕生したのです。
100年前の東京は、現在とは町並みも、人々の習慣や生活環境も、自然もかなり違ったものでした。

幸い、私の手元には我が祖父である白柳秀湖(しらやなぎ・しゅうこ)が残した著作が多数あり、その最初期の作品に当時の東京とその周辺の万物を扱った随筆集があります。
書かれたのは明治40年代初め頃。即ち丁度100年ほど前になります。
一般には手に入り難い書物ですが、内容は中々に興味深く、当時の東京を偲ぶものとして物置の奥深くに眠らせてしまうのは惜しいと考えました。

ほぼ1年に亘る、今風に言えば「歳時記」。項目は全部で172あり、凡そ二日に1回のペースで記されています。
私の日記でも原作のペースにほぼ従いながら紹介してゆく積り。一年間のお付き合いです。
100年前の文章ですから読み難いのは致しかたありません。使われている漢字等も現代では、特にパソコン上では使用不能のものもあります。出来るだけ原作をそのままに、止むを得ないものについては現代の機能の範囲内で変更しつつ綴ってゆく予定です。

いくつかの項目については、若干のコメントを付け加えましょう。それでは、

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尾花

 葦を大阪の表徴とすれば、尾花は東京の表徴なり。九月の半より、道灌山以西の高原は、殆んど尾花を以て蔽われたりといふも甚だしき誇張にあらず。大山街道、青梅街道、中仙道、甲州街道など、国道の両側は籬落に遮蔽せられて展望の自由なし。尾花の美は、国道と国道との間を縦横に交叉せる里道に入りてはじめて之を見る可し。
 榛莽地の秋、唯見る丈より高き尾花の原、茫々として雲に入り、夕日の空に接したるもよし。例へば、国分寺より府中の本宿に通ずる小径の如し。里道坦々として行けども尽きず、鶏犬の声遥かに聞ゆれども更に人家を見ず、唯両傍の尾花、時に女郎花の艶にして、藤袴の楚々たるをまじへ、繚乱として風にそよぎ、露に伏したるけしき、絵そらごとゝやいはん。例えば丸子街道より、品川水道に沿いて大山街道の駒沢に通ずる道路の如し。
 耕地にありても畑と畑との区域には、尾花の叢をそのまゝとして垣に代へたるもの多し。垣に代へて残されたる尾花の冬枯れて白く黄昏の野もせに動揺せるさまを見れば、今更に『旗すゝき』という語思い出さる。上杉両官領が此平野に兵を競ひたる当時のさまなど思い出だされたるも興深し。
 開墾の未だ十分ならざる処、此処に一団、かしこに一団、尾花の方陣を作りたるもをかし。茫々たる広野のたゞなかに、口碑にも、記録にも無縁の塚あり。鎌を入れたるものに悪霊のたゝりありとなし、里童も之に近づかず、唯尾花の茂るにまかせたるもあはれなり。
 尾花は九月の中旬より穂に出で、十月のなかばに至り、白くうら枯れて又別種の趣きを呈す。されば尾花の美は穂に出たるはじめの一週間ばかりと白くうら枯れたる末にありとす。穂に出たるはじめはやゝ紅味を帯びて光沢あり。雨後の夕陽に照らされて美しき金色の光を放つ。げに金泥の襖そのまゝなり。白くうら枯れたる尾花も夕陽に映じて光あり。但し彼は雨後を最も妙とし、之は大気の乾燥したる時を以て妙とす。
 『落人の為かや今は冬枯れてすゝき、尾花は』といへどすゝきは禾本科植物の総称なり、尾花は其代表的なるものなり。

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「籬落」(りらく)とは現代の垣根のこと。
「里道」は“りどう”と読んで、現在の言い方では「一般道」でしょうか。広辞苑では、「国道・県道以外の道路の旧称」とされています。
「榛莽」は草むらのことで、“しんぼう”と読むのが普通ですが、秀湖は“しんもう”とルビを振っています。
「官領」とはもちろん室町時代から続いた職名。特に関東官領であった上杉憲政と上杉謙信のことを指していると思います。
「旗すゝき」は、万葉集第一巻四五にある柿本人麻呂の歌からの引用でしょう。“み雪ふる 阿騎の大野に 旗薄” という一節ですね。

国分寺から府中の本宿に通ずる道には人家が無かったと書かれていますが、現在は車の往来が激しい場所。100年間での変化が偲ばれます。

「すゝきは禾本科植物の総称なり、尾花は其代表的なるものなり。」 と書かれていますが、現在では「ススキ」が正式和名で「オバナ」は別名。現在ではススキはイネ科植物ということになっていて、禾本科(かほんか)はイネ科の旧称とされています。

 

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