読売日響・第518回名曲シリーズ

9月は、私にとっては目ぼしいコンサートが少なく、ほとんどスクロヴァ月間状態になっています。
スクロヴァチェフスキの音楽監督としての最後のシーズンは9月に到って漸く初登場ですが、3種類のプログラムが用意されています。その2回目。

ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第4番
     ~休憩~
ブルックナー/交響曲第9番
 指揮/スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ
 ピアノ/アンドレ・ワッツ
 コンサートマスター/デヴィッド・ノーラン
 フォアシュピーラー/小森谷巧

チケットは完売、という情報が流れていましたが、現実には空席もかなりありました。現に私の定席の前列など、ゴソッと5席も空いていましたからね。
恐らく会員券を所有していながら、パスした人もかなりいるということ。ブルックナーには「おたく」と呼ばれるようなファンが多い反面、嫌悪感を催す聴き手がいるのも事実。

会員券というシステムは割安で利便性がある一方で、行きたくない会も買わされる面もありましょう。
反面、聴きたくてもチケットが手に入らない回もあるのですから、ここはオーケストラ側が斡旋仲介するなどのサービスがあっても良いような気がします。
事務局にそこまで負担を要求するのは酷かも知れませんが、現代はネットなどによる情報交換が瞬時に可能な時代。クラシック業界としてもっと積極的な販売網を整備する必要があるのではないでしょうか。

たとえ少ないとしても、いかにも空席が勿体無い。そんなコンサートでした。

しかしながら前半の協奏曲。ワッツ・ファンには申し訳ありませんが、これは失望しました。
演奏がどうこう言う以前に、基本としてのテクニックが如何にもお粗末です。技巧だけが音楽じゃないのは承知していますが、こうも指が回らないと、音楽以前の問題でしょう。

ワッツと言えば、ニューヨーク・フィルのヤング・ピープルズ・コンサートでリスト(第1協奏曲)を聴いたのが最初。もちろんテレビでしたが、曲が終わる前から拍手が始まってしまい、その超絶技巧に誰もが喝采を浴びせたものです。

昨夜のワッツは、これが同じ人とはとても信じられない出来。天才も、時が過ぎれば唯の人。表現は不適切かも知れませんが、そんなことを思ってしまいました。
知名度は無くても、もっと「弾ける」若手ピアニストは何人もいるはず。このソリスト選択には疑問が残ります。

ピアノも何故か「ヤマハ」。恐らくベートーヴェン当時のピアノの雰囲気を出すための選択だったのでしょうが、響が薄い上に音も濁り勝ち。
協奏曲は、ソリストとオケの丁々発止が相乗効果のように緊迫感を高めるのが醍醐味なのですが、これではオケも単なる伴奏。スクロヴァチェフスキには珍しく手綱の緩い演奏に聴こえてしまいました。

弦の編成は10型で、コントラバスは一人多い3人。カデンツァはベートーヴェン作の大きい方。

一転して指揮者もオーケストラも精気を取り戻したのが、メインのブルックナー。

私がスクロヴァチェフスキ/読響によるブルックナーを聴き始めたのは第8番からで、順次番号を遡るように聴き、最後に残ったのがこの日の第9です。
これで全曲プラスαを聴き終えることが出来ました。(2000年3月定期の第9は聴き損ないました)

ミスターSのブルックナーは、終始一貫。スコアの細部に光を当て、作品の構造を明らかにして見せる処に特徴があります。
よくある内面的にして感動的なブルックナーとは一線を隔すもの。某古老指揮者が信条としたような、オルガン風にして混濁も厭わない頑固一徹のインテンポ、恰も宗教儀式のようなブルックナーとは別世界。

ここがスクロヴァチェフスキのブルックナー評価の分かれ目かも知れませんね。私は宗教的・カリスマ的ブルックナーは苦手なので、ミスターSのブルックナーをこそ最大級に評価する立場です。

とにかく、聴いていて初めて耳にするようなパッセージがいくつも飛び込んできます。それが単に面白く聴かせるだけの小細工では決してない。
読売日響も、指揮者の意図を完全に理解し、持てる能力を最大限に発揮してブルックナーの真髄に迫ります。

思うに、この名演を達成できたのには三つの要素があったと思います。
第一は、スクロヴァチェフスキの徹底した楽譜の読み。第二は、氏の頭に描かれた音楽を現実の響として実現することを可能にする職人技と耳。そして第三は、指揮者とオーケストラとの信頼関係。
この三つのどれか一つが欠けても、ここまでの高みに達することは不可能だったでしょう。

幸い、この日の演奏は日本テレビがテレビ収録していました。スクロヴァチェフスキがブルックナーのスコアをどう読んだか、それを楽員に如何に伝えたか、オーケストラがマエストロにどう応えたかは、テレビ・カメラがしっかりと捉えていてくれたでしょう。

 

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3件のフィードバック

  1. アリス より:

    初めて書きます。ゆきずりですが、ちょっとだけトリビアを・・・。
    ワッツ氏のピアノ、ヤマハだったんですね。最近読んだ、ギーゼキングを評する吉田秀和氏の文章のなかに、ボールドウィン社のピアノを愛する人物という共通項からワッツ氏の言葉に触れている部分があります。それによると、ワッツ氏は、「スタインウェイ、特にニューヨークのスタインウェイのきらきらした音色、外向的でぎらぎらしたような響きが好きになれないのだ」と仰っていたことが書いてあります。この趣向が、いまにつながっているものと思われます。
    この評論種には、リヒテル氏の大阪公演のとき、ぴっかぴかのスタインウェイを用意して待ち構えていたところ、氏が気に入らず、大阪中のピアノを弾いてまわって、結局、ヤマハを選んだというエピソードも書かれています。私は氏の全盛期を存じ上げませんが、ワッツ氏の腕の落ちが激しいのだとすれば残念ですね。ただ、それを後半生のリヒテル氏が愛したという、ヤマハ・ピアノのせいにしては、ピアノが可愛そうです。
    失礼いたしました・・・。

  2. メリーウイロウ より:

    アリスさま
    私の拙い感想をお読みいただき、ありがとうございます。その上にコメントまで頂いて恐縮です。
    ヤマハ・ピアノについては、私の好き嫌いの範疇です。決してヤマハが劣っているという意味ではありません。
    ワッツ氏のスタインウェイに対する感想と同じ、とお読み頂ければありがたいのですが・・・。
    この日記も一素人の感想に過ぎません。こういう印象を持った人もいた、という程度です。私の体調が悪かったのかも知れませんし、あるいはワッツ氏が不調だったのかも知れません。
    ただ、私はこの日の演奏は楽しめませんでした。
    ところで一つ判らないことが。
    トリビア、って何のことでしょうか。

  3. アリス より:

    かるい冗談のつもりですので、あまりお気になさらないでください・・・。
    ところで、「トリビア」に喰いつかれましたか。これは、とるに足りない雑事とでもいう意味です。中世の「自由七科」(リベラル・アーツ)の主要四科(算術、幾何学、天文楽、音楽)に対して、文法、修辞学、弁証法が「トリビアム」と呼ばれたのが語源で、英語の語彙にも入っています。もともと学問を学ぶための基礎として、重要性があるから入っていたわけですが、やがては、実用的な四科よりも軽いものとしてみなされるようになったようです。
    そこで、通じていてもあまり価値のないものというスタンスから、現在のような意味になってきたと思われます。トリビアリズムというと、瑣末主義という意味になります。綴りは、’trivia’です。日本では、日常の雑学を面白おかしく報告しあう「トリビアの泉」というテレビ番組が話題になり、一般的に「トリビア」という言葉も使われるようになりました。

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