二期会公演「カプリッチョ」

昨日の勤労感謝の日、二期会公演のリヒャルト・シュトラウス「カプリッチョ」を観てきました。二組のキャストが其々二公演、計4日間開催の最終日です。私が観た回の主な配役等は、

伯爵令嬢マドレーヌ/釜洞祐子
伯爵/成田博之
作曲家フラマン/児玉和弘
詩人オリヴィエ/友清崇
劇場支配人ラ・ロシュ/山下浩司
女優クレロン/谷口睦美
ムッシュ・トープ(プロンプター)/森田有生
イタリア人ソプラノ歌手/高橋知子
イタリア人テノール歌手/村上公太
執事長/小田川哲也
 管弦楽/東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
 指揮/沼尻竜典
 演出・装置/ジョエル・ローウェルス

このほかに8人の従僕たちや第9景でバレエを踊るダンサーも重要ですが、名前は省略します。ごめんなさい。

前日の冷たい雨とは打って変わった小春日和の午後、何の情報もないままに日生劇場に向かいます。時期が時期なので新橋で下車、日比谷公園内松本楼の前にある大銀杏の紅葉を眺めてから会場へ。

私がカプリッチョを観るのは二度目で、前回は東京オペラ・プロデュースの公演、原語による日本初演の際でした。鏡を巧く使った松尾洋の演出が伝統に沿ったもので、作品の泣き笑いを楽しんだものです。

今回はベルギーの演出家ローウェルスがオペラをどう料理するか。先日もワルキューレで絵画的にも美しい舞台を創り出した若手です。

配られたチラシの中に「演出家からのメッセージ」というペラの青紙一枚が挟まれていました。

“もちろん音楽作品として価値のある遺産であることに間違いはない。しかし私は、演出家としてこの作品の中にもっと普遍的な足跡を見つけ出したいと思った。言葉と音符の中に単なる芸術表現ではなく、より人間的なメッセージが隠されてはいないだろうか?”

嫌な予感が走ります。
そして・・・。

一にも二にもこの演出が評価の分かれ目、というのが私の感想です。正直に言って理解に苦しむ演出。
観終わった直後は拍手を躊躇われるような違和感を感じましたが、一晩経過して多少は納得できる点も出て来たところですね。もう一度観て確認したい気持ちですが、私が接したのは既に千秋楽でした。

感想の整理もつきませんので、気の付いたことを箇条書きで残しておきます。

指揮者登場、前奏曲が始まると同時に幕が開きます。荒廃したサロン。シャンデリアが天上から落ち、家具調度がひっくり返っています。
暗闇の中にフラマンとオリヴィエが登場し、何やら探し物をしている様子。
入れ替わるようにナチスのドイツ兵たちが侵入してきます。テロップには「1944年占領下のパリ」。
兵士たちが調度を元に戻したところからオペラがスタートします。

こんな政治的な「モノ」を引っ張り出して落とし前をどうつけるのか、というのが最初の疑問。これが尾を引いて素直にオペラに没入できません。
80歳のシュトラウスが取り組んでいたナチス政権下のドイツを意識していることは間違いありませんが・・・。

東京オペラ・プロデュースの時と同様、第7景の最後でマドレーヌが“チョコレートをこのサロンで頂きましょう”と言う所で照明が落とされ、休憩。

後半の舞台が豹変したのは第10景の最後。冒頭に出たナチス兵たちが闖入してきます。
ここで明らかになったのは、フラマンとオリヴィエがユダヤ人であって、連行の対象になっていること。
更に演出家ラ・ロシュが実はナチ党員であることも明白に。帰り仕度で身に付けたコートにハーケンクロイツの縫い取があるのが見て取れました。
そのラ・ロシュ、兵士の隙に乗じてフラマンとオリヴィエを逃がすシーンも描かれています。

第11景は8人の下僕によるレリーフですが、ここは完全にナチ・ドイツの将校や兵士にすり替えられています。
第12景。プロンプター・ボックスから登場するムッシュ・トープは、晩年のリヒャルト・シュトラウスそっくり。プロンプター=作曲家自身、と見做して良いでしょう。

奇抜な読み変え、深読みは更に続きます。

この歌劇のハイライトとも言うべき「月光の音楽」。ここには月は無く、第9景でバレエを踊った踊り子(伊藤範子)が一人登場して舞います。それを横で見ていた一人の兵士が欲情、踊り子に近付くと、何とこの兵士が前景でもデュエットしたダンサー(原田秀彦)であることが判ります。
露骨には描きませんが、デュエットを終えた後の表情からして、兵士が欲望を満足させたことは明らか。

踊り子=オペラ芸術、兵士=暴力、と読み変えれば、戦争という暴力によって伝統的なオペラ芸術が凌辱されたことの象徴、と見ても良いのでしょうか。
この観点から改めて舞台を見ると、シュトラウスが出てきたプロンプター・ボックスは棺桶であったことに気が付きます。「オペラの死」。

謎は更に追い打ちをかけ、最後の場面で歌うのは年老いたマドレーヌ。オペラ本編では30歳位の設定でしょうが、最後は70歳位に見えましたね。
これを舞台下手の暗闇で見つめるのは、どう見てもムッシュ・トープ。

仮に第12景から最後の場面までに40年ほどが経過していたのだとすれば、最後のムッシュ・トープは亡霊に違いないでしょう。

幕切れで静かに閉じられてしまうサロン。これまた「オペラの死」の象徴か。

それにしても何故マドレーヌを老婆にしてモノローグを歌わせたのか、私にとってローウェルス演出の最大の謎はここにありました。

細かな点ですが、黙役の年老いた召使の役割は何だったのか? マドレーヌとオリヴィエ、マドレーヌとフラマンの、本来なら二人だけの場面でも必ず舞台に出ていたのは何故か? ユダヤ人の会話を盗聴する「耳」という意味があるのか?

以上、謎が一つに纏まらない印象ですが、プログラムの解説(広瀬大介)に面白い指摘がありました。
幕切れにホルンが二回繰り返すモチーフは、クエスチョンマークの形を模している、という指摘。
なるほどスコアを45度回転させて楽譜を見ると、ホルンのメロディー・ラインとこれを受けるピチカートの和音は、正に「?」の形。

マドレーヌの最後の一節、“ありきたりではない結末は無いのだろうか” という疑問こそがローウェルスの演出の原点。巨大な二つのクエスチョンマークによって謎を聴衆に問うたのか、とも思えるカプリッチョでした。

その結果、本来は喜劇であるはずの「カプリッチョ」が悲劇に変わってしまった、というのが私の現段階での結論です。

余りにも演出の細部に目が行ってしまい、肝心の音楽を聴くべき耳が疎かになったのは残念。
日生劇場の乾いたアクースティックで聴くシュトラウスは、甘さ控えめのシュトラウスといった感想。

難解なオペラを堂々と原語で演じ切ったスタッフ全員に大拍手。テキストを細部まで読み込んで、適切な管弦楽を演奏したマエストロ沼尻とオーケストラにもブラヴォ。

二期会のシュトラウス・シリーズ、次は何が飛び出すのでしょうか。

 

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