二期会公演「イル・トロヴァトーレ」

去年の秋頃からオペラに出掛けることが多くなってきましたが、昨日は上野の東京文化会館で行われた二期会によるトロヴァトーレの初日を聴いてきました。二期会に限ればダナエの愛、ウイーン気質、トロヴァトーレと続き、来月のオランダ人も出掛けることになっていますから皆勤賞ものでしょ。
他にも日生劇場でドン・ジョヴァンニを体験したり、先月は京都に遠征してフィデリオ。オケの定期でもトリスタン全曲の演奏会形式、というのもありましたっけ。
未だ先のことですが、来シーズンの二期会も聴きたいものが目白押しですし、びわ湖ではリング・サイクルがスタートする由。何も海外まで出掛けなくとも、オペラの名作を充分に楽しめる環境になっています。複数の団体がレヴェルを高めながら鎬を削る、こういう国は世界でも珍しいのじゃないでしょうか。

今回のトロヴァトーレは都民芸術フェスティヴァルの参加公演でもあり、パルマ王立歌劇場とヴェネツィア・フェニーチェ劇場との提携公演で、演出はイタリアで既に上演されたものをそのまま持ってきたものです。
初日に限って演出家マリアーニ氏のプレトークが行われましたが、それによるとパルマ→ヴェネツィアと改良を重ね、今回の東京は更に手を加えた、言わばトーキョー・ヴァージョンになっているとのこと。イタリアでこの演出を見たファンには、その違いも楽しめる公演になったことでしょう。

マリアーニ氏によれば、トロヴァトーレという作品は「ミステリアス」。それはプログラム誌に演出ノートの形でも紹介されていましたが、事実や出来事は既に過去に起きたことであり、実際に歌い演じられるのは「ムード作品」だ、ということなのですね。私にとってこういう見方は意外であり、新鮮でもありました。
更に氏は、どの場面も夜の暗闇の中で進行するので、ミステリアスなムードが聴き手を容赦なく鷲掴みにする、とも書いています。従ってどの場面も照明は暗く、登場人物の表情も暗さに紛れて良くは判りません。

夜である以上は常に月(しかも満月、イタリアでは三日月も登場したそうな)が輝いていて、その色が場面の性格によって白っぽかったり、炎のような赤色に変わったり、最後は緑色にまで変化する。月はもちろん登場人物の一人、ルーナ(月の意味)伯爵からの連想であり、象徴でもあるのでしょうが、この演出の大きなポイントになっていました。
ホールに入ると、舞台とピットの間には戦争の場面を描いた2枚の大きな垂れ幕が掛かっており、この移動式の幕が客席と本舞台とを遮り、場面転換の装置としても機能して行きます。以上を前置きとして、初日のキャストは、

マンリーコ/エクトール・サンドバル
ルーナ伯爵/上江隼人
レオノーラ/並河寿美
アズチェーナ/清水華澄
フェランド/伊藤純
イネス/富岡明子
ルイス/今尾滋
老ジプシー/三戸大久
使者/吉田進
管弦楽/東京都交響楽団
合唱/二期会合唱団
指揮/アンドレア・バッティストーニ
演出/ロレンツォ・マリアーニ

マンリーコを歌うサンドバルだけが招聘歌手で、指揮者バッティストーニの要請で参加したメキシコシティー出身の若手。他は全て日本人キャストですが、並河/清水の女声コンビは読響のヴェルディ/レクイエムでも感銘を受けた二人、期待が高まります。
伯爵の上江隼人(かみえ・はやと)は初体験ですが、前回のリゴレットでタイトルロールを務めて好評だった方だそうで、次々に新しい声に接することが出来るのも二期会の魅力でしょう。

今年28歳のバッティストーニ、東フィルの定期でレスピーギを聴いた時にはやや力任せという印象がありましたが、やはりオペラを聴いてこそ、と考えたのも出掛けた要因の一つ。
今回の来日では九響定期でオペラの演奏会形式を振っており、都響との共演も初めて。歌劇での手腕は如何に、というのも見どころ聴きどころでした。

第1幕・第1場は垂れ幕の前から始まりましたが、幕が開くと目を瞠るのが舞台の美しさ。中世・ルネサンス期の絵画を見る様な構図で、磨き込まれた床面に映り込む舞台を巧みに利用したアイデアに思わず感嘆の声を上げてしまいました。(カーテンコールでサンドバルが床面を叩いて称賛の意を表していましたネ)
兵士が並び、甲冑に斜めから微かな照明が射す。まるでレンブラントの世界じゃないか。この恐らく特別に用意したであろう床面は、オペラ全体に亘って使用され、どの場面も一幅の名画を見るように創られています。マリアーニが述べる、「イル・トロヴァトーレは本や絵画で見知った古代の寓話のようでもある」という概念の反映なのでしょう。

この美しい舞台に見惚れる間も、オペラはどんどん進行して行きます。レオノーラが白、マンリーコとアズチェーナが赤、伯爵は青という装置の色彩も、終始統一されていて恐らく意味があるのでしょう。
暗い舞台を時折華やかにするのは、ジプシーの合唱(アンヴィル・コーラス)で下手に上がる実際の炎や、効果的に使われる蝋燭の仄かな灯り。明と暗の際立った対照も、このモノクロ的な舞台の色彩感に大きく寄与していました。
更に照明の見事な使用が舞台を一層惹き立て、絵画的な場面をより立体的に見せて行きます。カーテンコールでも照明担当のクリスチャン・ピノーが、盛んに技術陣にエールを送っていたのが象徴的でしたね。

歌手陣も高いレヴェルでバランスが揃い、二期会としても最高水準でしょう。中でもアズチェーナは役得という面もありますが、この日の喝采を独り占めした感がありました。サンドバルとの二重唱でも、テノールを圧するほどの勢い。
トロヴァトーレと言えば名歌手たちが次々とアリアを連発し、スターの饗宴という印象を持っていましたが、今回はかなり趣が異なったもの。歌よりも演技に重点が置かれており、その歌唱も朗々と声を響かせるというより、弱音で語りかけるようなスタイルが多かったと感じました。

例えば、第2幕で歌われるルーナ伯爵のアリア(第7番)。私が初めて見た舞台は、往年のイタリア歌劇団の公演でのエットーレ・バスティアニーニでしたが、手を広げて如何にも「私が歌手」というようなスタイルで声を朗々と響かせ、出番が終わるとサッサと引き上げるという古いスタイル。
しかし上江は舞台に倒れた状態で歌い出し、むしろレシタティーヴォで繊細に、その心理状態を語り始める。その演技的な歌唱は全員に共通したもので、オペラというより演劇、という印象を残すのに効果的だったと思慮します。

もう一つ例を挙げれば、有名な第3幕のマンリーコのアリア。ただハイCを聴かせて客席を沸かせるという定番ではなく、何と第3幕と第4幕とは幕を下ろさず続けて上演してしまいました。こういう試みは私には初体験。一言で評すれば、現代的トロヴァトーレということでしょうか。

それは指揮のバッティストーニにも言えること、というより指揮者の指示でこのような作品創りが行われたのでしょう。真の最強音はスコアの指示通り最低限のポイントに止め、全体的にはピアニシモを丁寧に扱っていく。弱音を基調にしているので、要所となるフォルティッシモがより効果的に鳴り響くという効果。確か全曲のフィナーレでは敢えて打楽器に加筆も施していたと思いますが、どうでしょうか?
指揮に付いてもポイントを一つ例示すれば、第2幕でアズチェーナが有名なアリアを歌った後、具体的に指摘すれば練習番号8の7小節目と9小節目。「復讐」(Mi vendica…)という台詞の繰り返しを支えるオーボエ2本とクラリネット2本のみによる和音。確かにここにヴェルディはアクセントを付していますが、バッティストーニはここを弱音ながらもクッキリと際立たせるように吹くことを求める。
「復讐」というキーワードの重要さを初めての聴き手にも明確に意識させる手腕に、この指揮者の譜読みの深さが認められます。

見落としも多かったと思いますが、他に気が付いた点をいくつか挙げれば、
レオノーラが服毒を決意し、伯爵に身を売る。その場面で掛けられていた垂れ幕が音を立てて落下し、運命の劇的な展開を象徴的に表現していたこと。
最後の最後、マンリーコの処刑は見つめる月の前。逆光の効果もあって処刑は影絵のように演出され、それを一人哄笑するアズチェーナの表情が不気味だったこと。
ストーリーが通して夜闇の中で展開するので、過去と現実の境目が曖昧となり、全てがアズチェーナの夢だった、という解釈も成り立つのではないか、と感じたこと。
等々でしょうか。

本公演はこのあと18日に別の組で上演され、夫々20・21日の休日に再演されます。歌手たちの饗宴も然ることながら、演出と指揮者に大注目の二期会トロヴァトーレ、イタリア歌劇ファンでなくとも一聴・一見をお薦めします。

 

 

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