読売日響・第487回定期演奏会

読響の11月定期は11月最後の30日に行われました。今シーズンの読響で最も注目すべき定期がこれ。もしシーズンで一つだけ選べと言われれば、私は躊躇いなく本会を選ぶでしょう。

そもそもシュニトケ作品だけで一夜のコンサートを通してしまうあたり、読響の、いやロジェストヴェンスキーの独壇場です。

《シュニトケ生誕75年》
シュニトケ/リヴァプールのために(日本初演)
シュニトケ/ヴァイオリン協奏曲第4番
     ~休憩~
シュニトケ/オラトリオ「長崎」(日本初演)
 指揮/ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー
 ヴァイオリン/サーシャ・ロジェストヴェンスキー
 メゾ・ソプラノ/坂本朱
 合唱/新国立劇場合唱団(合唱指揮/三浦洋史)
 コンサートマスター/藤原浜雄
 フォアシュピーラー/小森谷巧

予想した通り、P席を合唱団が占拠しているにも拘らず、客席は読響水準からみればガラガラでした。最初から“冗談じゃない、シュニトケなんか” という常連が相当数いたのは確か。この辺がオーケストラ運営の難しい所でしょう。こういうプログラムが組めるのは比較的財政に恵まれたオケでないとできませんね。
その意味でも、いや、だからこそ積極的に足を運ぶのが会員の義務ではないでしょうか、え?

最初と最後の作品が日本初演となっていますが、実際には11月28日に池袋で同じプログラムが演奏されたのが初演。この日は厳密に言えば再演になります。

ヴァイオリン協奏曲については、少なくとも群馬交響楽団が飯守泰次郎氏の指揮で演奏しているようです。

例によってプログラムはほとんど参考になりません。前半はスコアを、後半はBIS盤の解説(アレクサンドル・イヴァシュキン)を頼りに聴いていきましょう。

シュニトケは1934年生まれ。と言うことは戌年ですね。私より一回り上の戌。道理で親近感が湧くわけだ。
ショスタコーヴィチより28歳年下。健在なら今年75歳、64年の生涯は如何にも短命だったと思います。

生まれはロシアのエンゲリス。ここはモスクワの南西、ヴォルガ河に面した町で、かつてはソヴィエト内でもヴォルガ=ドイツ自治区の首都でもありました。北緯51度近辺ですから、緯度ではロンドンとほぼ同じですね。
この生地もシュニトケを理解するには重要な意味を持っていると思います。つまり父親はユダヤ人、母はドイツ人ですから、人種的にも生まれた環境からもロシアからは遠い、ということ。

更に、音楽の勉強は、父親の仕事の関係で12歳頃から3年間ウィーンで学んだのがスタート。その後戻ったロシアでエフゲニー・ゴルベフとニコライ・ラーコフに学んでいますが、シュニトケに強く影響しているのはドイツ・オーストリアの音楽で、特にバッハの影響が大きいことは、この日選ばれた3作品でも明らかだと思います。

最初はシュニトケ晩年の「リヴァプールのために」。作品には電子ギター、バス・ギター、シンセサイザーが指定されていますが、舞台は良く見えませんでした。右奥、コントラバスの横にピアノを含むキーボード群が置かれていましたが、あるいはこれ等が代用されていたのかも知れません。情報が乏しく確かなことが判らないのは残念。

いずれにしてもロジェストヴェンスキー自身がキーボード楽器は「現代の通奏低音」と説明していますから、プログラムに書かれていたようなビートルズへの敬意などは関係ないと思います。

(プログラムと言えば、解説(川上薫)に1994年編曲と書かれていましたが、少なくともスコアには別の原曲を編曲したという事実には触れられていません。原曲が存在するとすれば、どういう作品なのでしょうか。曲解とは矛盾するように読めますが・・・。)

冒頭に奏され、作品中に度々登場する2分の3拍子は恐らくコラールでしょう。これには必ず「通奏低音」が伴います。
いきなり珍しいチューバのソロが長々と続きますが、日本フィルから移籍した次田心平の妙技。

シュニトケの晩年のスタイルは決して聴き易いものではなく、途中で逃げ出した人が1階だけで少なくとも4人はいました。この程度の長さ(15分)が耐えられないのでしょうか。

続くヴァイオリン協奏曲第4番はギドン・クレーメルに捧げられた作品。スコアの解説(マリア・ベルガモ)によれば、クレーメル Gidon Kremer へのモノグラムであるG音が中心的な意味を持っている由。

第1楽章 序奏の意味を持つとされていますが、私には作品全体の予告編のようにも感じられました。
3つの要素から出来ていて、1.鐘のモチーフはGから始まり、明確にギドンの頭文字。 2.伝統的なコラールはバッハに繋がるもの。 そして、3.現代的なシュニトケ節。ソロを弾くサーシャの腕が冴えます。

第2楽章 8小節単位の進行が次第に高まり、濃密になって行くパッサカリアでしょう。時折挟まれる通奏低音もまたバッハを連想させます。華々しいソロのパッセージを縫って、時折ゾッとするほどの美しい「歌」が聴こえる魅力。

管弦楽の全奏が炸裂した所から始まるカデンツァ・ヴィジュアル Cadenza visuale ! という独特な手法は協奏曲の見どころ。オケの大音量に消されてヴァイオリン・ソロは聴こえないのですが、ソリストのジェスチャーでカデンツァを認識するのです。

パッサカリアはG音に収斂しますが、言うまでもなくクレーメルへの敬意。

第3楽章 東洋的要素のシュニトケ・メロディーが独特な魅力を放ちます。

第1楽章のコラールが再現し、第2ヴァイオリンの12番奏者との掛け合いが続くと、シュニトケ節がフレクサトーンとアルト・サックスの重奏で再現。
残念ながらフレクサトーンが良く見えません。ほぼ真ん中あたりの打楽器奏者が揺すっていたのがそれでしょうか。

私の席からは第2ヴァイオリンの12番奏者も良く見えませんでしたが、女性奏者が担当していたようです。

第4楽章 先立つ三つの楽章の回想と言えるでしょう。第1楽章を開始した鐘のモチーフで始まり、終わるのですね。第2楽章パッサカリアの回想には、美しい「歌」も垣間見えます。
第2ヴァイオリンの12番奏者によって第3楽章が回想され、プリペアド・ピアノによって第1楽章コラールも回想されます。
そしてコーダは管弦楽の全奏 ffff が鳴らされ、ソリストがカデンツァ・ヴィジュアルを回想するのでした。

前回の共演ではアレクサンドルの名前だったサーシャは、見事なソロを披露。シュニトケ作品の伝道者としての自信と誇りが見て取れます。

喝采に応えてバッハ(パルティータ第3番のジーグ)を披露しましたが、如何にもシュニトケとの繋がりを感じさせるジーグ。サーシャの選択と方向は完全に正しいものでしょう。

ヴァイオリン協奏曲第4番は、最も充実していたシュニトケ第4期の作品。私が実際にナマで体験した作品では、ベルクの協奏曲、三善晃の協奏曲と並んで20世紀のヴァイオリン協奏曲の3大傑作の一つだと確信しました。

アンコールの後でパパ・ロジェヴェン氏が再登場、“そうそう、忘れていたよ” と言わんばかりに12番奏者を起立させていたのが笑えましたね。
(飯守/群響では、12番が立って演奏した、という記録も残っています)

長崎は1958年の作品で最初期の代表作。シュニトケ作品の中でも最大規模のオケが必要で、楽譜を見ることは出来ませんでしたが、8本のホルン、2本のチューバ、4管編成の木管などは左右に分割して配置されていました。
電子楽器にはテレミンも含まれるそうですが、この日はミュージック・ソーで演奏していたようです。ハープ2、チェレスタ、ピアノ、オルガンなどは、ロジェストヴェンスキーによれは「現代の通奏低音」としての役割を担います。
合唱は歌うだけでなく、第3楽章では叫び、呻くことも要求されるという具合。

詩はロシアのプロパガンダ詩人アナトリー・ソフロノフのものが中心。シュニトケはソフロノフを嫌っていましたが、先生に使用を強要された由。シュニトケ自身は、このオラトリオを未熟だが真摯な音楽と評していたそうですね。

作品のオリジナルは6楽章でしたが、作曲家会議で激しく批判され、公開演奏は禁止されてしまいます。“表現主義的で、音楽の本質であるリアリズムを見失っている”という批判だったそうな。

そこでシュニトケは楽章を一つ削り、フィナーレを書き替えてこれに対処しました。オリジナルのフィナーレは第1楽章の素材で終えるものだったようですが、フィナーレ冒頭の素材に差し替えたのだそうです。
楽譜を見た先輩ショスタコーヴィチはオリジナル版を絶賛していましたが、改作を見て、“どうしてフィナーレを変えたの?” とシュニトケに問うたという逸話が残っています。

変更したフィナーレではソフロノフの詩を使わず、既に作曲した音楽にスローガンのみをシンプルに使った新たな歌詞を友人のゲオルギー・フェーレに造って貰った由。ここでは音楽が詞に優先したのですね。

書き直した新版が当局に推薦され、ショスタコーヴィチも推薦状にサインしています。これがモスクワ・ワールド・サービス・ラジオで放送用にモスクワで録音され、日本で放送初演されたのが1959年のこと。しかし結局、公開では演奏されないまま忘れ去られてしまいます。

楽譜はロンドンのシュニトケ・アーカイヴに残されているそうですが、省略や不明箇所が多く演奏は不可能の代物。

事態が急展開したのは、ケープ・フィル(南アフリカ最大のプロ・オーケストラ)の芸術支配人であるセルゲイ・ブルドゥコフが演奏と録音を決意し、モスクワに向かってから。
幸いにも原資料がモスクワ音楽院と放送局に残されていたのです。これとアーカイヴをチェックするについては、ロシアの音楽家と南アフリカの作曲家アラン・ステファンソンが尽力。
結実した演奏稿が作曲から半世紀を経て公開で世界初演されたのが、2006年11月23日、ケープタウンでのこと。つい3年前の出来事です。

解説等によれば、オラトリオ「長崎」はオルフの影響は認められるものの、シュニトケ独自の個性が反映された傑作。

第1楽章「長崎、それは悲しみの町」 オスティナートのバス・ラインはバッハのマタイ受難曲を連想させるもので、ロシア音楽とは無縁。

第2楽章「朝」 東洋的雰囲気のホルン信号で始まります。ストラヴィンスキーの初期作品、例えば「鶯」を連想させる音楽。

第3楽章「この重苦しき日に」 最もオリジナルな音楽で、シュニトケ初期の劇的なスタイルが聴きどころ。原爆の様子をグリッサンドや合唱の叫びと呻きで表現していますが、ここが批判の対象になったのだそうです。思わず仰け反るほどの読響パワー炸裂。頻繁に拍子が変化するようで、マエストロも何時になく気合が入った指揮ぶり。

第4楽章「焼け跡にて」 プロコフィエフのアレクサンドル・ネフスキーを連想させたのは、P席最前列中央、合唱団の前に位置した坂本朱とロジェストヴェンスキーという組み合わせだけではないでしょう。

第5楽章「平和の太陽」 悲劇として終えたいシュニトケと、楽天的に終えたい共産党との対立。この緊張がイージー・リスニングを拒む要素になっているのですが、作品全体で最も引っ掛かるのはここ、という印象は免れません。

最後の最後で音楽に光が差し込みますが、必ずしも同意していない作曲家の苦悩がありあり。
確かに一夜のコンサートの締め括りとしては絶大な効果を挙げますし、実際この日も賞賛の嵐が巻き起こりましたが、何か奥歯に物が挟まったような違和感が残るのは事実。

マエストロもスコアを掲げて聴衆の喝采に応えていました。

思うに、シュニトケは大別して5つの時代に分けられるように、作風が様々に変化していきます。一つのジャンルに於いても、個々の作品は一つ一つ全く違うのが実態。
この日のように纏めてシュニトケ作品を取り上げることが、作品理解の上では欠かせないものと考えます。

もちろん聴く人によって評価は異なるでしょう。しかし様々な作品を体験して作曲家を評価することが大切ではないでしょうか。
その意味でも今回の読響の勇気は大いに称えられて然るべき。
次なるシュニトケ体験は、クァルテット・エクセルシオが纏めて取り上げる弦楽四重奏曲でしょう。

 

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