読売日響・第526回定期演奏会

昨日は楽しみにしていた読響定期、前回ショスタコーヴィチの第7交響曲で圧倒的な名演を聴かせてくれたテミルカーノフ登場です。今回のプログラムは、

ショスタコーヴィチ/交響曲第1番
     ~休憩~
ドヴォルザーク/交響曲第8番
 指揮/ユーリ・テミルカーノフ
 コンサートマスター/デヴィッド・ノーラン
 フォアシュピーラー/鈴木理恵子

そう、得意のショスタコーヴィチに加えてマエストロの指揮では初体験のドヴォルザーク、どんな演奏になるでしょうか。また5月は、14年間に亘ってコンマスを務めてきたデヴィッド・ノーランが退任する月。今回がノーランの定期登場の最終回でもあります。
何時ものように淡々と登場したノーラン、何事も無いようにチューニングを終えてマエストロを待ちます。

前半のショスタコーヴィチ、これはもうテミルカーノフの独壇場で、伸縮に富んだテンポ、変幻自在の表現で客席を沸かせました。
マエストロの指揮は一見無造作、その表現にも名人芸的な自在さが感じられます。例えば冒頭のトランペット・ソロ(いつものように長谷川潤の妙技)からして、譜面通り p で通すのではありません。ややアクセントを付けてスタートすると直ぐに音量を落とし、軽いクレッシェンドでファゴットを誘い出す。頭からこんな調子でスコアに無いアーティキュレーションを披露して行くのでした。

更に傑作だったのが、後半のドヴォルザーク。とにかくテンポが速い。後にも先にもこんな超特急な第8を聴いたことはありません。
しかし単に早いだけでないのはテミルカーノフのテミルカーノフたる所以。第2楽章を例にとると、21小節目に初めて顔を出すフルートの「鳥の囀り」を極めて速く啼かせると、次の小節の2本のクラリネットが3度音程フレーズを、グッと速度を落として受けるという具合。要するに一筋縄では行かないのです。

すすり泣くような第3楽章アレグレット・グラツィオーソの出だしも、一音づつ気持ちを高めるようなゆったりした開始。
ここを聴いて、かつて放送で聴いたザルツブルク音楽祭(ウィーンだったかな)でのジョージ・セル指揮ウィーン・フィルの演奏を思い出してしまいました。ザッハリッヒな演奏で知られるセルが、余りにもロマンティックな表情付をしたことに驚愕したのですが、この日のテミルカーノフも負けず劣らずセンチメンタルな表現。これには驚かされましたね。

終楽章にもサプライズ。現在ドヴォルザークの演奏にはスプラフォンの新校訂版が使われ、今回もその版だったと思われますが、テミルカーノフは変奏主題が再現される際(練習記号Nから)、279小節から294小節までの16小節をリピートして聴かせたのです。
ここは最初の出版のノヴェロ版でもそうですが、繰り返し記号は書かれていません。その前の3か所も、その後の2か所も繰り返されるので不思議と言えば不思議ですが、マエストロは随分思い切った解釈をしたものです。少なくとも私は、ナマと録音とを通じて初めて耳にした処置でした。

ということで衝撃のドヴォルザークが嵐の如く閉じられましたが、サプライズは更に続きます。サッと楽員を引き揚げてしまうのが常のテミルカーノフ、何と定期演奏会にも拘わらずアンコールをサービスしたのです。
曲目は、これまた意外にもエルガーの「愛の挨拶」。ショスタコーヴィチとドヴォルザークの回で何でエルガー? と首を傾げましたが、直ぐに判りましたね。“あぁ、今回はノーランの最後の定期なんだ”と。
「愛の挨拶」は、英国人ノーランに向けた挨拶であり、英国を代表するエルガーの代表作でもあります。

以前英国を代表する指揮者ジェームス・ロッホランが、日フィルのマエストロサロンで、「愛の挨拶」をアンコールする習慣は日本だけではないか、でも実に良いアイディアだ、と語っていたことを思い出します。
だとすれば、テミルカーノフがこの曲をアンコールしたということは、日本を良く識るマエストロが日本のファンに捧げた1曲かも知れません。サンクトペテルブルグ・フィルとの全米ツアーの収益の一部を東日本大震災への被災者に寄付したほどのマエストロ、真に心憎いプレゼントだったと言えましょう。

ノーラン氏の最後の演奏会は、5月24日の特別演奏会。やはりテミルカーノフの指揮ですが、そのときは何かセレモニーが用意されているのでしょうか。残念ながら私は聴けませんが、ノーランの最後の姿に拍手を贈りたいと思います。

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